2012年05月02日

観世栄夫という人。


夕べ、久しぶりに敷島(安治川)親方と、「ミュージシャンと猫」の著者・佐々木美夏さんとで人形町の某老舗居酒屋で呑んでいた。興に乗ったところで、都営浅草線に乗り、浅草の某所にある隠れ家的バーへ、ごとごと揺られて向った。

そのバーは、先代のマスターを偲ぶエゴラッピンの森さんをはじめとする有志の方々で開いている、なんとも気持ちのよいバーだった。薄めた酒、氷で薄くなる酒が嫌いな私は、奄美大島のラムをストレートでくいくい呑み、この世とあの世の境がだいぶ薄くなったあたりで、憧れのちわきまゆみさんやいとうせいこうさんがやってきた。

せいこうさんと、どうしてその話になったのか記憶がおぼろげなのだけど、気づいたら、観世英夫さんとお能について熱弁をふるっていた。(ような気がする。笑)おそらく、新作CD【Pyramidia】をお店でかけて頂いて、それを聴きながら森さんとせいこうさん、3人で話をしていての流れだと、おぼろげながら思うのだけど。



なぜ、いつ頃、私がそこまで能に夢中になったのか、それすらもよく覚えてないのだが、大学時代、とにかく私は能が好きだった。とはいえ、貧乏学生の身分でチケットの高い能楽堂の公演に行くことはできなかったから、もっぱら神社の境内で執り行われる薪能(たきぎのう)や漁火能(いさりびのう)など、無料もしくはチケット代がとても安い能舞台をよく観に行っていた。

ある年の夏、神奈川の三崎口の漁港で観世栄夫さんの漁火能があるというので、喜びいさんで出かけた。能にはいくつかの流派があるが、とくに私が心惹かれたのは、動きの少ない静寂な流派と言われている観世流のものだった。その中でも、観世栄夫さんの舞には、伝統文化の所作を超えた凄みを感じて、私の中のトップアイドルとして君臨していた。(後、彼が伝統芸能の枠を遥かに超えた、この世界の中では革新的なアーティストであることを知る。)

その日の情景は、今でもありありと思い出すことができる。三崎漁港の中に設えられた能舞台。その背後に無数の漁火が、舞台両脇の松明と共に浮かび上がり、まさにあの世とこの世の境が出現した。お客さんは浴衣を着た近所のおばちゃんや子供たち、若いカップルなどで、とりたてて能に興味がある人ばかりの堅苦しい雰囲気はひとつもなかった。鼓と能管の笛の音に誘われるように、面をつけた観世さんが静かに舞台へ現れた。息を呑んでひとつひとつの所作に魅入れば魅入るほど、なんともいえない眠気が増し、眠らまいとするがんばりの狭間で、動くはずのない面が笑ったり、泣いたり、鬼になったりするのである。見手の心が鏡のように面へ映り、自分の奥深い感情と対峙しているかのようである。なんというナチュラルトリップ!

素晴らしい舞台を見終えて、熱に浮かされたように電車に乗った。線路の切り返しがきつい車内は大げさに揺れて、立っているのも難しいほど。ふと進行方向を見やると、なんとまあ、先ほどまで舞台におわした観世栄夫さんが、ごく普通につり革につかまって立ってらっしゃった。しかも、楽師の方々を皆座らせて、ご自分はひとり立っているのである。私は心底驚いた。観世さんほどの方ならば、黒塗りのベンツかなにかで送り迎え付きだと勝手に想像していたから。おそらく、安価なチケットの漁火能は、予算がなくて出演者も電車移動だったのではないかと勝手に推測する。

観世さんの姿を捉えた私は、何の躊躇もなく勝手に体が動いて、今しがた買ったばかりのパンフレットを抱えて、突然声をかけていた。「あのう…お疲れのところすみません。先ほど舞台を観たものですが、大ファンです。ぜひサインを頂きたいのですが。」舞台ではあれほど大きく見えた観世さんは、とても小柄な方で、能面にまけないくらい個性的なオーラを放っていた。突然話しかけられて、一瞬怪訝な表情だった観世さんだが、じっと私を見据えるとすぐに顔をほころばせて「ほほう。あなたはお若いのに能がお好きと見える。なかなか見込みがありますな。」と言い、次に「電車がひどく揺れますので、サインをしている間、私の体を抑えていてくれますか?」とおっしゃった。私は、何もそんなに強く掴まなくてもいいだろうにというほど、渾身の力を込めて、観世さんの両肩をがっしり抑えた。その夜、頂いたサインを部屋に飾ってちっとも眠れなかったのを覚えている。


それからひと月くらい経った頃だろうか。いつものように大学の打楽器研究室で練習していたら、マリンバの神谷百子先生に呼ばれた。「エミちゃん、たしかお能が好きで、先日も観世先生の漁火能行って来たって言ってたわよね。私のところにその観世先生から仕事が入ったのだけど、スケジュールが合わなくて。よかったらやってみない?」夢かと思った。それでなければ、あの日から実はずっとこの世とあの世の境を抜け出せなくて、どこか別の次元で生きているのかと思った。その仕事とは、観世さんが能の考え方でシェイクスピアの「マクベス」を演出なさるツアー公演の打楽器奏者というものだった。一介の無名の学生が勤まるものなのかという不安を遥かに飛び越えて、「やらせてください!」と前のめりに返事をしていた。

それからほどなくして稽古が始まった。現場に入ってみて改めてわかったことは、その舞台はとても前衛的(または、演劇の根本に触れる非常に原始的な)な観世さんの考え方から生まれたものであるということだった。普通、シェイクスピアの劇には、各役柄に合わせた豪華な衣装が用意されるが、出演する俳優さんは、すべて黒一色のシンプルな服をまとう。音楽はオーケストラではなく、フルート1本と、スネアドラムに少々の小物のみのマルチパーカッションのみ。それが、全幕を通して、舞台の手前につくられたやぐらに出っぱなしとなる。音楽は、ざっくりとした決まり事はあるものの、ほぼ即興で、その日の役者さんの声色やタイミングでまったく違うものになるというものだった。まさに、能の考え方だった。色のない舞台で、役者の言葉の力のみでシェークスピアの言わんとする真意を表現する。それは、動かぬはずの能面を言葉で動かし、伸び縮みするはずのない舞台を自在に空間を歪めて、森にしたり、山にしたりする能舞台の世界そのものだった。1本のフルートは能管の役目をし、些細な音の高低や強弱で、すべての色を決める。パーカッションは鼓の役目で、打ち込む音のタイミングや、やはり強弱で舞台の奥行き、パースを決定するものだった。とんでもない大役を引き受けてしまった…私は正直おののいた。


「シェークスピアは、言葉の劇である。その言葉そのものを浮かび上がらせるために、余計な演出を極限まで排除する。」と、初稽古の日、観世さんはおっしゃった。稽古は厳しかった。役者さんが元来のシェークスピアに少しでもとらわれていれば、途端にゲキが飛ぶ。「なんだ今のセリフは!そんな力のない言葉でどうして王だと客にわかる?!」役者さんは、演じることそのもの、言葉の力について完全に既成概念を捨てねばならなくなり、皆が皆、バーナムの森に彷徨うことになった。言の葉が生い茂る暗い森を、その意味を求めて手探りで稽古は続いた。

そうして、東京永田町の星陵会館をかわぎりに、全国ツアーが始まった。もともと、能という幽玄の世界が土台になっているからかもしれないが、初公演の星陵会館ではよく出ると噂のあの世の方が、本番の舞台を横切るなどのハプニングもあった。ただもう、こちらもあの世に片足をつっこんでいるような時期だったので(笑)今日のスペシャル配役くらいにしか捉えてなかったのが、今考えると相当可笑しい。


舞台がはねると、観世さんは「みんなは大勢すぎて連れて行けないから、ひみつね。」とウインクして、フルートの大和田葉子さん(この方は、当時すでに国際コンクールで数々の賞を受賞していた日本を代表するフルーティスト)と私を呑みに連れて行ってくださった。そこで、私はありったけの質問と、当時考えていた、西洋音楽と伝統邦楽の違いから見える、音や空間の考察について、延々と話を聞いて頂いた。あの頃の私は、現代音楽の打楽器について、正直行き詰まり、悩んだりあれこれ考えることが多かったのだ。

西洋音楽は、ひとつの音を出す前に、かならずその音の長さに見合う“呼吸”をする。わかりやすく言えば、“振りかぶり”や“前拍”だろうか。1、2、3、4という明確な拍子のある西洋の音楽は、まず無造作にある時の流れを、拍や小節で区切ることから構築が始まる。それに対して能などで使われる伝統邦楽(馴染み深いものだと、神社なんかで流れる結婚式の音楽など)は、ある程度の枠はあるものの、西洋音楽に比べれば明確な拍を感じさせない。能の舞台でいつも驚愕するのは、鼓と能管の演奏者が、まったく振りかぶりもない中で、ぴったりと打点を合わせることだ。(もちろん、前拍がみられる曲もある)西洋音楽にどっぷりと浸かっていた私には、その難しさや優雅さに毎度のこと度肝を抜かれた。能舞台の奥行きやパースを、音で自在に変えることができるのは、拍や拍子にとらわれない、ただひと筋の時間の流れにのっとった音の置き方があるからなのだ。というような話をですねー、酒を呑みながら長々長々と聞いて頂いたわけなんですよ。観世さんは「とても興味深い。私も君と同じ考えです。」だとか「なるほど、なるほど。」などとうなづいて、孫ほども違う年の駆け出し若輩者の話を辛抱強くいつも聞いてくださった。


あのときの、観世さんとすごした数ヶ月。お話した数々の事柄は、私の中に、宝物のような布石を残してくれた。私が能の世界に強く惹かれたのも、西洋音楽一辺倒で息詰った思考に、対峙するひとつの答えを見出したからかもしれなかった。

ツアーが無事に終わり、観世さんとの逢瀬もなくなったが、その後も能のファンであったことは確かだ。ただ、そのツアーをきっかけに私の中で新しい世界への欲がうまれて、忙しくなってしまったため、なかなか観世さんとその後、お会いするきっかけが見つからなくなってしまった。2007年に、観世さんが大腸がんで亡くなったとき、心の底から後悔した。行こうと思っていた能舞台がその何年間か前にあったのに、行けなかったからだ。観世さんは、どえらい方だった。そして、大抵のどえらい方がそうであるように、気さくで、偉ぶったところがひとつもない、チャーミングで可愛い方だった。

そういえば「マクベス」稽古初日は気恥ずかしくて言い出せなかったのだが、「あの日、漁火能の帰りに電車の中でサインをお願いしたのを覚えてらっしゃいますか?」と、何度目かの稽古の際に聞いてみた際、観世さんはちょっと照れながら「覚えていますとも。なんだか気恥ずかしくて言えなかった…とりゃあー!」と、いきなり柔道の技をかけられて、床にたおされたっけ。(笑)そのときの少年みたいな笑顔と、してやったりな表情で、観世栄夫という人は私の中に今も生きている。








posted by 猫沢エミ at 19:29| パリ | 芸能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月17日

悔しいけど、パリにまた惚れる。〜ミッドナイト・イン・パリ


Emi NECOZAWA & Sphinx 1st Album【Pyramidia】
名古屋 LIVE @NAGOYA EUROCOOP HIGASHIYAMA 2012 年4月21日(土)
限定30名様♡チケット、残り少なくなっています。急いで!



ウディ・アレンpetit.jpg



だいたい、あの街を手放しで褒めそやすことには、いつも抵抗がある。いや、自分でもひねているとわかっています。かれこれ10年も住んでいて、今さら嫌いだなんて、いいません。でもね、なんか悔しい。面倒で、トラップが街のあちこちにしかけられていて、いるだけで熱に浮かされたような、恋の最初期みたいな不安定さに揺さぶられる。それが、パリ。不潔だし、不便だし、新しいことなんかあんまりないし、夜中の買い物に苦労するし。だけど、たまらなく良い。この街には、この街にしかない人生が確実にあって、ことに歴代のアーティストたちを強く惹き付けた。

アーネスト・ヘミングウェイ、F・スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタイン、ピカソetc… ユダヤ系のセルジュ・ゲンスブールは、イギリス娘だったジェーン・バーキンをパリへつなぎ止め、スイス生まれのジャン=リュック・ゴダールは、かわいい北欧のアンナ・カリーナと、数々の名作を生んだ。パリは、外国人を常に引きつけ、また彼らの存在によってより複雑で豊潤な街へと成長を遂げた。


そんなパリに今も恋し、映画作品へと投影する監督は後を経たない。2006年に公開された「パリ・ジュテーム」は、世界各国18人の映画監督による、パリをテーマにしたオムニバス映画で、パリを観光客目線で撮る者、内側から撮る者と、実に様々な視点で立体的なパリの魅力と、そこに暮らす人々の心象風景を見事に切り取った、とてもチャーミングな映画だ。

パリでこの映画が公開されたのは、2006年の6月頃だったと記憶している。あと1ヶ月でパリを去ることがわかっていた私は、左岸のビブリオテークMK2へ、ひとり、この映画を観に出かけたのだった。4年間のパリの想い出と見事にリンクして、見終わったあと、涙がとまらなくてとまらなくて、困り果てた。映画館から外にでると、ラベンダーの夕暮れ空が広がっていて、自分がどれだけこの街に心を預けていたのか、痛いほど思い知った。ホームレスのムッシュに「大丈夫かい?」と声をかけられ、思わず「パリに恋をしていた。」と泣きながら吐露したっけなー。(青春♡)


あのときの甘酸っぱさは、自分でもこっ恥ずかしい想い出なのだけど(そうゆう想い出があるから、余計抵抗するのかもしれない。笑)やっぱり今でも、深夜番組で、パリの風景が音楽と共に流れているのを見たりすると、つーっと涙が溢れてきてしまったりして、「アホか。何年住んでやがるんだ。」と照れ隠しに大げさに呆れてみたりする。だから、特に外でパリへの愛に溢れた映画を観るのは、大泣きの可能性が大なもので、ちょっと避けたい気持ちだったのだけど、不覚にもまたしてやられた。しかも、監督がウディ・アレンなものだから、余計タチが悪い。

ハリウッドで脚本家として売れっ子のギルは、婚約者イネズとその両親と共に、ひょんなことからパリ旅行へやってくる。ギルは昔からパリに恋焦がれていて、結婚を期に、しばらくハリウッドの中身のない脚本の仕事を休み、本当になりたかった仕事−小説家にチャレンジしてみようと思っている。ところが、金持ちの娘で即物的なアメリカンガールのイネズは、そんなギルの気持ちなどおかまいなしで、「彼、頭がイカレたみたい。」と理解のリの字も示さない。ママと一緒に方々でお買い物&偶然パリに来ていた昔のBFポールの薄っぺらなフランス知識ひけらかしにまんまと夢中。ぱっと見も素朴すぎて冴えないギルなのだけど、彼は確実にパリに愛されて、ある夜、彼が敬愛する黄金時代1920年代のパリへとタイムスリップする。そこに居たのは、歴史上の偉人でしかなかったヘミングウェイやコール・ポーター、フィッツジェラルドにガートルード・スタインなど、夢のようなアーティストたちのコミュニティだった!

ここまで読んだ方は、よくある陳腐なファンタジーを想像するかもしれない。それがですね、いいんですよ。本当に、観ている自分が憧れていたヘミングウェイに会ったようなときめきを覚える。ギルとまったく同じ感動を共有することができるのだ。これはもう、ロマンチストでありながら同時に痛烈なリアリストでもあるウディ・アレンの熟しきった手腕と言わねばならない。ここしばらくのアレン作品は、物のよって好きになれない映画も多かった。私が彼の作品群で一番影響を受けたのは、70年代初頭「スリーパー」なんかを撮っていたあの頃である。それからなんだか小難しくなってきて、もやもやする映画も多かったのだけど、キタ!目の覚めるような美作が!しかも、映画の端々に、誰もがうなづく深い哲学がちりばめられている。たとえば、アメリカの薄っぺらな価値観に対してのアンチテーゼ。(これは、戦後の日本にも同じことが言える。)物質主義、権威主義、そうしたつまらないものと、愛や人間性、心の通い合いを最重要とするフランス文化の対比。そして、いつの時代にも襲われる懐古主義へのクエスチョンマーク。どうしても人は、いつも「昔はよかった」と言って過去を振り返るのか?映画を観終わってからも、ずっと考えていた。おそらく、新しいものがいつも一番最良になってしまうと、人も文化もすぐに滅びるからなのでは?と私は考える。昔を尊ぶ時間、そこは新しいものを生むアイディアの宝庫で、しかも、早すぎる発展へ良いブレーキをかける役割をしているのじゃないか?と。個人的な想い出の振り返りにも、そうした効能がある。反芻し、学び、今を正しく見据えるために。

ギルは、お金には困らないけれど、どこか自分に欺瞞を抱えていた今までの行き方を、パリで捨てることになる。そう、パリは余計なものを洗い流し、捨てさせる街でもある。ただし、パリの真の姿を見ようとする者だけに、その恩恵を与える。この街は、ひとつの大きな生命体で、確固たる意思がある。パリがそこに住める者を選び、愛で、試練を与える。そうして、選ばれた者は野生を取り戻して精悍なまなざしになってゆくのだ。ギルは、パリに焦がれ、パリに選ばれた。その目もくらむような愛され方を、上質なファンタジーとして描ききったアレンのパリへの恋心に、全身全霊で包容を贈りたくなる。


そういえば、私はこの映画の中に出て来る偉人、ことにヘミングウェイの作品をまともに読んだことがなかったと気がついた。アメリカ文学といえば、どっぷり読んだのはカート・ヴォネガットとバロウズくらい。ハードボイルド文学の祖と言われる彼も「歴史の偉人」となった途端に、なんだかお行儀のよい向こう側の世界と感じてしまっていた。私は映画の中で、20年代のパリで生きた彼に会ったのだから、ぜひ、もういちどきちんと読みたいと思った。まるで偶然一夜を共にした、魅力的な男の文学作品を手にとるような、そんな身近な感覚で。

●ミッドナイト・イン・パリ

2011年 スペイン=アメリカ合作
監督、脚本/ウディ・アレン 
出演/オーウェン・ウィルソン、マリオン・コティヤール
  キャシー・ベイツ 他

2012年5月26日(土)より、
東京・新宿ピカデリー、Bunkamura ル・シネマ他
大阪・大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ他
全国ロードショー♡








posted by 猫沢エミ at 18:20| パリ | その他の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月12日

アン・ポワン。ボン・ポワン。


Emi NECOZAWA & Sphinx 1st Album【Pyramidia】
Release Anniversary LIVE @SARAVAH東京・渋谷 2012 年4月14日(土)
只今、絶賛ご予約中♡



今日はよく海外のことを思い出した日だった。と書くと、全部過去のことみたいに思われてしまうかもしれないが、私は過ぎた日々がたとえ昨日のことでも、こまめに思い出を反芻する、牛のようなところがある。

現在進行形の海外との繋がりは、主にフランスであるから、人から見れば旅の多い、しょっちゅう世界を駆け巡っているかのような印象を持たれるかもしれない。が。はっきり言ってしまえば私ほど出不精な、ほおっておけば家にばかりいる人もいないのではないかと自覚する。

日本人はもともと農耕民族の定住型だから、一所にいると落ち着く人々なのだと思う。例に漏れず私もそのひとりで、何か手を打たないと一生日本という小さな島国から出られなくなってしまうのではという不安の塊が、30歳をすぎての突如フランス移住に踏み切らせた理由なのかもしれない。そして、大変ではあったけれど、それは私の人生に代替えのきかない貴重な経験をもたらした。

それでも、人から「ジェットセッター」だの「活動的」だの言われるたびに、いえいえ何をおっしゃる…という気持ちが一番前に立つのは変わりがない。だって、東京にいればほとんど家にいて、しかも家の中の仕事部屋の椅子の上か、リビングのソファの定位置の2ヶ所、センチメートルでいえば、ほんの30p四方の上に居るだけなんだもの。パリだって同じだ。アパルトマンが見つからなくてパリの市内中を点々とした2年間を除けば、最近はパンテオンの裏手にあるアパルトマンの、仕事椅子の上と、ダイニングテーブルの椅子の上にちょこんといるだけ。そりゃ取材でたまに出かけることもあるけれど、仕事にしていなかったら、自分で旅をプロデュースすることはめったにない。ときたま、やっぱり仕事で旅に出ると、もうこのまま家に帰らず、ずっとずっと世界を巡ってみたい…などと思うこともあるれど、やっぱり家に戻って「落ち着くなー」とか言っているのが関の山なのだ。


海外に出ると、若い頃からものすごく旅をしていたり、いろんな国の学校を点々としている人に巡り会う。ところが、私の出会ったそうした人たちが、暮らした分量だけ何かを自分のものにしているわけではないことが、意外と多くわかった。点々として移動していることで、何かをなし得た気分になっている人もいた。もちろん、移動の分量だけ、たくさんの経験が体の中に落とし込まれて輝いている人もいたけれど、みんながみんなそうじゃないのが面白いなと思ったものだ。

逆に、プログラマーや家で作業する出不精を生業としているような友達で、びっくりするほど世界事情に長けている人もいる。アンテナは、その人の移動行動と、実はあまり関係なく、収拾した知識を自分の中へ落とし込む作業は、その人のセンスと好奇心、努力を楽しみに替える能力に比例しているのではないかと思うのだ。

石の上にも三年、という言葉があるけれども、おそらく仕事椅子の上にも三年、リビングのソファの上にも三年、なのだと思う。目の前を行き過ぎる情報の山から、自分の人生に必要なものを選び取るセンスや、人の価値観を自分の価値観にすり替えない勇気も含めて、何かひとつのことをやり出したら最低三年はかかるのだよ、という先人の教えは正しい。


牢屋に監禁されている人も、世界を船で渡り行く人も、その人が30p四方のアン・ポワンで出来ることすべてをやろう、知ろうと思えば世界は30p四方のボン・ポワンに変わる。出不精なジェットセッターは、いつもそんなことを考えてみるのである。






posted by 猫沢エミ at 00:39| パリ 曇り| なんてことない日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

失敗コレクター/【津田メルマガ】補足♡


Emi NECOZAWA & Sphinx 1st Album【Pyramidia】
Release Anniversary LIVE @SARAVAH東京・渋谷 2012 年4月14日(土)
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つい先日、ツイッターの申し子・津田大介さんの発行されているメルマガvol.28に、私の「猫沢エミになるまで」インタヴュー記事が掲載された。これは、昨年5月7日に、津田さんと宍戸留美ちゃんが司会をされているユーストリーム番組「OIL in Life」に出演した際のトークを、そのまま文章化したものである。


しゃべるだけしゃべってすっかり忘れていたこの様子が文章化されて送られて来たとき、私は自分の半生をただの一読者として外側から見たわけだが、自分のことながら「なんて騒々しい半生なんだろう。知恵熱が出そう。」と思った。いや、実際に季節はずれのインフルエンザB型で発熱していた日でもあったから、本当に頭が痛い内容だった。


昨年は、立教大学の1日講師としてお招き頂いた際にも、未来ある学生さんたちに、これと似たような話を、経験談交えながらお話させて頂いた。成功談ではなく、自分の失敗だらけの人生を声高らかに話したのだ。メルマガを読んでくださった方々はもう、嫌っつうほどおわかりだと思うが、私の人生は失敗の連続&そんなつもりはなかった。の連続なのである。

打楽器の道へ進んだのは、オーボエが死ぬほどやりたかったのに入った吹奏楽部顧問に打楽器パートにされてしまったから。歌手になったのは、24歳で遭った交通事故で、一時右半身不随になってしまったが、それでもやらねばならなかったライブで太鼓が叩けず歌を歌ってお茶を濁したから。etc…


第一志望の大学へ落ちて第二志望の音大へ行くも、仮面浪人の末、翌年本当に行きたかった国立の芸術大学には出願書を出し忘れるというボケナスぶりで未遂に終わり、就職試験には15社全落ちし、生涯唯一の就職先で出会った会社社長には「君は性格が悪いから、これからどこの世界に行っても誰にも愛されないし、成功しないだろう。」と呪いまでかけられた。ちなみに、家庭問題が激化し、わりと暗黒だった20歳前後、さすがにいいことないなーと悩んでいたある日、どこからともなく現れた某宗教団体の、一見消臭スプレー売りを装った人に家まで上がり込まれ、本名の字画をむりやり鑑定されたら「およ!七代先の父方のおじいさまの愛人に祟られています。これを払いのけるには、あなたが尼になるしか道はありません。」と言われ、実家の母に相談したところ「そうね!あんたが尼になれば全部解決するかもね。尼になれ!あはは」と電話を切られた。

破天荒な父に苦しめられて大人になった側面もあったから、真面目なサラリーマンと早く結婚して幸せな家庭を築きたかったが、それも叶わなかった。最初にキスした人は付き合い始めて半年後、肺がんでこの世を去った。その後も付き合う男がことごとく変わり者ばかり。ある人などカード限度額一杯使い込まれて消息不明。堕胎魔にセックスレスと、お悩みドンキホーテ状態だった…と、こんな風に書くと不幸で仕方がない風に見えるでしょうが、人様がなかなか経験しない不幸とセットで、人様がなかなか経験できない豊かな人生を送ってきたと思っている。しかも、不幸な出来事というのは過ぎてしまえば、これ以上ない強力な笑いや希望のネタになるというおまけもついてくる。

ネタ、というといやらしい響きかもしれないが、何もこうゆうところに書けるだのお金に変わるだのそんなことではない。ネタと書いて自分の引き出しと読む。感情をコントロールし、現実から目をそらさずに対処できる経験値の高さのことである。よく「哀しいことがあると人は強くなる」と言うが、それをもっと具体的に言葉にすれば、つまりこうゆうことなのだと思う。どんなに酷い目にあったって、嫌なものは嫌だし、哀しみの数値が減るなんてことはありえない。ただ、物事に対処しすぎて疲れ果てた荒野の先、ひとりぽつんと風に吹かれている自分は、不感症になっているのではなく、実は「より冷静に自分を見ている」のである。どうせ涙を流すのなら、哀しいことではなくて、むしろ嬉しいとき、美しいものに出会った時に流ししたい…と、哀しいことに泣き飽た人間は思うものだ。だってさー、たった一度の人生なんだもの。私は生まれ変わりなぞ信じていません。

そうして、目の前にやってきた電車が何行きなのかを確かめることもなく、飛び乗り続けてまもなく42歳。そろそろ子供も生めなくなるし、老後の貯蓄もないけれど、人生のディレクションは間違っていないなと思える。このバリエーションに富んだ不幸と、アクシデントと、やってきたそれらのことを、不幸が起きた時点で「失敗」と決めつけないことで、私はカードをひっくり返して来た。運命なんか、いくらでも変えられるんですよ。手強いやつなら、万力でねじ曲げて好きな形に変えればいい。これから先も、どうせいろいろあるだろう。だって、自分が自分であるが故に、こうした出来事を引き寄せているのだから。


もう別に何も怖くない。本当に怖いのは、何かの拍子に無駄に幸せになって、自分のバイタリティーが損なわれてしまうこと。本当の不幸はそこにしかない。もしもそんなことになったら死ぬほど嫌なので、ずっといろんなことに見舞われて、苦労する人生の方が、私にとっては最上級に幸せかもしれない。ゴット・ブレス・ユー♡



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posted by 猫沢エミ at 23:45| パリ 雨| なんてことない日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月16日

Sphinx、始動。




ー2011.10.24/25 SARAVAH TOKYO /Movie:Kosuke MORI


気がつけば確定申告が毎年のごとく、確定深刻な様子を見せ、ばたばたと髪振り乱して終わり、そんなことをしている日々のど真ん中、3月7日(水)大阪に拠点を置くレコード会社・ORENGE RECORDSから、猫沢エミとしては6年ぶりの、そしてEmi NECOZWA & Sphinxとしては初めてのアルバムがリリースされた。久しぶりのリリース。そしてここ数年、非常に厳しい冬の時代を迎えた音楽業界全般の風景からしてみれば、また自らの音楽を世に送り出せた感慨深さがひとしおなのだから、もっとじっくり祝杯でも酌み交わして噛み締めたかったのだけれど、このOù est mon chat?にすら直接記事を書くのが今日になってしまったくらい、日々の事柄に忙殺されていた旨をお許し頂きたい。


CDを出す。ということが、一昔前ならばそれがメジャーからなのか?インディーからなのか?なんて、わりとはっきりとした区分のあるものでありつつも、一応プロフェッショナル・ミュージシャン領域での可能性だったよなあと、妙になつかしい。バブルの崩壊後も、ずいぶんとがんばった音楽業界の本当の氷河期は2003年あたりから本格的に始まったと記憶している。その前年代、いわゆる90年代を飾った珠玉の音楽宝庫であった渋谷系ミュージシャンたちは、耳の肥えた音楽ファンに支えられながらも、それぞれの領域で、静かながらも熱い活動を維持してきたように思う。実力のあるミュージシャンたちは、どの時代でもなんらかの形でがんばって生きて行くものなのだと、生活に追われながらも、ときたま会う昔の同朋を見ると、勇気づけられたっけなあ。


そういえば、コロムビアに所属してた頃の私は、アルバム会議で毎度のこと泣いていたのを思い出す。売れ線狙いのポップミュージックという、毎度申し渡される会社側からの要望の枠内で、作曲にチャレンジするのは、逆に面白いことでもあり、やりがいもあった。私の中には、確固たるポップソングの作曲能力があって、そこを見抜かれ評価されることは、なんだか気恥ずかしい反面、わずかな誇りでもあったから。でも、基本的に理解されていない。というジレンマは常にあったのだ。クラシック、現代音楽、ジャズ、インプロヴィゼーションetc. 私をプロデュースしようとやっきになっているスタッフの中に、子供時代からその当時までに聴き舐めていた、猫沢エミというミュージシャンの音楽基盤になっているジャンルへの理解はほぼゼロだった。それで、毎度のこと会議で泣く羽目になった。「一緒に音楽を作るのだから、私の頭の中にある音楽の原風景をわずかでも見て欲しい。」と懇願すれば、いつも返って来るのは「そんなことは必要もなければ興味もない。君は売れる音楽を作れば良い。」のワンフレーズだった。売れる音楽ってなんだ?逆にあなたへ問いたいわ。「売れる音楽を、理論的に説明せよ。」おそらく出来ないでしょうけれど。


そんな折、元所属していたアトラスト音楽事務所が抱えているインディーズミュージシャンのバンドを中心に、コンピレーションアルバムを発売することになった。私は、メジャーレーベルで出すことのできない“私、本当はこんなのやりたい”曲を2曲、そのアルバムに収めた。それが、今回発売された【Pyramidia】に収められている【Filiti can-can】と【Zo-wa-z’oiseaux】だったのだ。そう、すでにもうお聴きの方は、頭の中に流れるであろう印象的なあの2曲。実はとても古い、今から14年前に書かれた曲なのである。それを10年近くもライブで何度も演奏して、練って今回のアルバムに入れてみたのだけど、自分でもびっくりするほど時差のない曲たちだと思った。当時、レコード会社の中にいた数少ない先見者が、この2曲をとても評価してくださったのを思い出す。その方は東北に住んでいて、先日、仙台へライブに行った際、十数年ぶりに会うことができた。そのライブとは、MONGOL800のキヨサクくんが作った別バンドNo Problem’sとJUJUちゃんの衛星放送TV用招待ライブだったのだけど、私は今、No Problem’sのパーカショニストとしても活動している。なんてこともすっかり事後報告でごめん。

話を元に戻そう。先見者の彼は、当時とても優秀な東北地方担当のプロモーターさんだった。レコード会社から独立後、アーティストと共に事務所を設立。しかし、その直後に音楽業界バブルがはじけ、多大な借金をおった。そこからやっと再生の道を歩き始めた途端、先の東日本大震災にみまわれたのだという。ブログには書けない私個人の苦難も含め、皆が激動の時代をようやく乗り越え、生きているのだとしみじみ再認識した瞬間だった。

「新しいアルバムを送ります。あなたが当時、正しく高い評価をしてくださった2曲も入っています。」そう言って、私は彼との短い逢瀬を終え、仙台市民文化会館の舞台に戻って行った。空には、とんびが旋回していて、大地震なんか本当にあったのか?と疑うような青い空で声高に啼いていた。


ところで今回、私がバンドという形であたらめて自分の音楽を世に送り出したのは、音楽を志した5歳から現在まで、生の楽器で音を表現するプレイヤーであるという基本に立ち返ったから。立ち返った、というのは変かな?歌手・猫沢エミという名前で、プロデューサーにプロデュースされる女性アーティストという表立ったイメージの強かった時代にも、元ピチカートファイヴの小西康陽さんをはじめ、私の礎をきちんと見てくださっていた方々とは、パーカショニストとしても、多く仕事をご一緒させて頂いた。ということは、限られた人しか知らなかったことかもしれないが。コロムビアを辞めてから、ほどなくして活動の拠点をパリに移してしまったので、日本での音楽活動がさほど激しくなかったのも一因かもしれない。いずれにせよ、様々な波を越えて、また新しいアルバムを出すことが出来たのだ。


今回、アルバムを出すにあたり、私を取り巻く理解者の多大な協力があったことが言うまでもない。サラヴァ東京のソワレ、桜田宗久くん。はじめ、このふたりが「アルバムとして音に残すべきだ。」と言ってくれなかったら、CDは生まれていなかっただろう。そこからレコーディングライブという前代未聞の難しいレコーディングスタイルを、音に変えてくださったエンジニアのidehofさん。そして、具体的にCDを世に送り出す多大な手助けをしてくださった、オレンジレコーズの中にご自身のレーベルを持つDJ鈴木 雅尭さん、グルーヴあんちゃん。素晴らしいジャケットをデザインし、どう低予算で形にするかを真剣に考え、実行してくださった日本一のグラフィックデザイナー真舘嘉浩さん。美しい写真を撮ってくださった写真家のmobiile小宮山裕介くん、わだりかさんのカップル。ほぼ1カメで信じられないほどかっこいいPVを作ってくれた森孝介くん。そして、裁断から製本、縫製を手作業で作ってくれたきもの作家のやまもとゆみちゃんをはじめとする、大切な仲間たち。我が事務所CITRON PLUSの椎名奏木の働きは、それらすべてを統括する要として、ここに書くまでもないほどだ。心から、本当に心から感謝します。


そんなアルバムをぜひみなさんに聴いて頂きたい。後悔はさせないつもり。それだけの物を作ったという確固たる自負があるから。お疑いの方は(笑)ぜひ、PVを見て欲しい。そして、CDよりも映像よりも、まずEmi NECOZWA & Sphinxの音楽は生である、ライブであるということを踏まえ、会場へ足をお運び頂きたい。関西のフルライブは3月23日(金)大阪、まもなくです!東京の方は、4月14日(土)サラヴァ東京にて。奇しくも私の42回目の誕生日となりました。いいでしょ?こんな42歳。(笑)自分にリミッターかけなければ、人間まだまだやれるのよ。どんどんつまらないリミッターを外して、日本は元より世界で活躍したい。すでにフランスでは、国営ラジオFRANCE Inter(フランス・アンテール)のエアーに乗り、多大な反響を得たEmi NECOZWA & Sphinx。私たちから、真っ向勝負のエネルギーを受け取りに来てください。


● Emi NECOZWA & Sphinx Official Blog
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■ CDの購入
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*このブログからCDを通販してくださった方には、特典として真舘嘉浩さんデザインのステッカーがつきます♡

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posted by 猫沢エミ at 14:45| パリ 霧| ライブ最新情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする