2013年12月18日

『素粒子』−ミシェル・ウエルベック読了記



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本を読むことが好きか嫌いかと言えば、大好きでもあり大嫌いでもある、というのが本心かもしれない。本屋に出かけると面白そうな本が膨大にあって、どう考えてもこれらを全部読むことはできなさそうだし、また仮に読んでしまったら人の作品を読むことだけに一生を費やして、アウトプットの時間は永遠に持てない絶望に見舞われるからだ。だから、私はこうすることにした。一生のうちにできるだけ多くの本を読めるよう務めるけれども、数ではなく1冊の本をどれだけ丁寧に深く読み込むかに重点を置く。

簡単に読めるものもあれば、時間がかかるものもある。時間がかかるものは、大抵描かれている世界観が私の知らないまったく新しいもので、その世界の構造をあらかた把握するのに手間取る。つまり、簡単には物語へ入って行けない。だが、そこでつまらないと読むのを辞めてしまうと、その後広がる素晴らしい世界に触れる事ができないどころか、作家と物語に対して間違った感想だけが残る危険性が高い。まず最初に言っておきたいのは、「素粒子」を一旦読み始めたら、どんなに時間がかかっても最後まで読む覚悟を持って頂きたい、ということ。でないと、この本は60〜70年代に渦巻いたフランスを中心としたヨーロッパ、ひいては世界のカウンターカルチャー、ヒッピームーブメントにおける一見自堕落なセックス事情を紐解いただけの話、そしてある鬱鬱とした2人の兄弟の精神病的な独白物語で終わってしまう可能性があるからだ。

「素粒子」の中には、差別的な発言や極端なモノサシで測られた表現も多い。だから、書いてあることをそのままにしか受け取れない人にもお勧めできない。世界にあるありとあらゆる現象、宗教、文化形成の礎となる人間のおぞましい欲望、矛盾について宇宙からまるごと地球を眺めるような俯瞰の姿勢が必要になる。それと同時に、自分自身が物質を構成する最小単位の“素粒子”となって、限りなくミクロの精神世界に降りてゆく冒険心も。


物語の骨格は、分子生物学者ミシェル・ジェルジンスキと、その異父兄である国語教師のブリュノの人生によって作られている。登場する物語の年代史も、ふたりの系譜をさかのぼる1800年代から未来の2200年までと幅広い。だが、中心は60年代を起点とするフランスを中心としたカウンターカルチャー、ヒッピームーブメントを経て、この作品が発表された90年代までが基軸となっているので、そこは掴みやすいかもしれない。分子生物学者のミシェルは、ノーベル賞を受けるに値する研究発表後、この世界から失踪する。

『形而上学的変異−すなわち大多数の人間に受け入れられている世界観の根本的、全般的な変化−は、人類史上まれにしか生じない。その例としてキリスト教の登場があげることができる。形而上学的変異はひとたび生じるや、さしたる抵抗も会わずに行き着くところまで行き着く。既存の政治・経済システムや審美的見解、社会的ヒエラルキーを容赦なく一掃してしまう。その流れはいかなる人間の力によっても―新たなる形而上学的変異の出現いがいには、いかなる力によっても―止めることができない。』−本文冒頭より引用

「素粒子」を読み始めた方は、プロローグに登場するこの部分を頭に留めておいて欲しい。おそらく読み終わったときに、「このことだったのか…!」とすべてが明瞭に理解できるはすだ。まさに、ミシェルの成し遂げる《第二の神の所業》とは、現存するこの世界を一新してしまう目覚ましい形而上学的変異に貫かれている。なんて書くと「猫沢さんの書評を読んでいるだけで頭が痛くなるから、さぞかし物語は難しくて読みづらいものだろう。」と思われるかもしれないが、私にもまったく知識不足なミシェルの研究領域である分子生物学の様々な専門用語や研究史の遍歴話以外は、恐ろしく落差のある俗でありきたりな、誰しも体験したことのある“人生の苦しみ”が、極一般の庶民感覚レベルで描かれているからご安心を。何が安心だ!暗そうな話だな。その通りである。どうして人生とは、かくも見事にうまくいかないようになっているのか?愛を求めるすべての人が、精神的高みへと達する前に、その具体的な手段であるセックスを行うための身体的な老いや病に屈服せざるを得ないのか?美しい者もそうでない者も、皆等しく存在の虚無感から開放されないのか?といった人生苦難の命題探しを、ミシェルは科学者の形而上学的変異をもってして理知的に、兄のブリュノはスワッピングやヒッピー文化のフリーセックス体験というあがきを通して描かれる。ことに思わず「このアホたれが!」と罵倒したくなるようなブリュノの様相には、失笑を通り越してある種の慈しみすら感じる。特に歳を重ねるごとに目に見える形で萎えてゆく性器を持つ男性諸君は、骨の随まで染入るような共感と、それでいてあまりに明快な悲哀の提示に反発を覚えるかもしれない。かといって女性はこの問題から免れるわけでもない。幾分「素粒子」の中では、女性が善き者として描かれている側面も見て取れるが、やはり私自身を含む女性も老いには勝てぬ、次世代の子供を愛の名の下によって生み出す生物としては、あまりに哀しい存在でしかない。そう、これは「愛」をすべての現象から切り離し、純然たるものとして残すために、宗教ですら救えなかった(ある意味、宗教の無力さも明確に描き出している物語とも言える。)人間を、どう救うか?という恐ろしく崇高な命題を伴った小説なのだ。


命題を描き切るために使われた、フランスの60年代から90年代までのうんざりするような社会・文化事情が非常にリアルに描かれているので、その“腐敗史”とも言える部分だけでも読む価値は高い。また、ブリュノが迷走するセックス文化事情は、さらにリアルに描かれるわけだが、これは作者ミシェル・ウエルベックが自堕落な時代を自ら通って来た体験記であることも、彼自身が告白している。ここで少しウエルベックのプロフィールにも触れておく。

『1958年2月26日、インド洋上に浮かぶフランスの海外県レユニオン島で生まれた。父は山岳ガイド、母は麻酔専門医だったが、両親は息子の養育権を放棄。ウエルベックが6歳のときに、父方の祖母に預けたきりにしてしまう。その後両親は離婚。母親は別の男性とのあいだに娘を作ったが、ウエルベックは4歳下のこの異父妹とこれまで一度も会ったことがないという。なおウエルベックというペンネームは、祖母の性からきている。パリのセーヌ・エ・マルヌ県で少年時代を送ったのち、同県モー高校の寄宿生となる。祖母が彼が二十歳のときに死去。80年に国立高等農業学校を卒業したウエルベックは、同年に最初の結婚をし、23歳で息子が誕生するがやがて離婚。職業も失ってしまう。その後精神のバランスを崩し、数度にわたり精神科入院を余儀なくされた。』−訳者・野崎歓氏によるあとがきより引用

この作家前のウエルベックの個人史が、登場するブリュノの設定に克明に反映されていることは、「素粒子」を読んで頂ければ一目瞭然だ。ウエルベックが卒業した国立高等農業学校は、農業技術指導者の養成を主眼とするエリート校であること、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家アラン・ロブ=クリエが同校の卒業生であるが、ウエルベックがむしろヌーヴォー・ロマン的な《エクリチュール/書体、作風》の戯れ、テクストの探求といった方向性を不毛で退屈だとしてまっこうから否定する姿勢をとっていることも、名訳を生んだ野崎歓氏のあとがきには書き添えられている。


かくしてウエルベックは、生物学の豊富な知識と性文化の放蕩体験によって「素粒子」を生み出した。2人の主人公は、ウエルベック自身の中に宿る2つの極端な姿であり、科学者の冷静な観察眼と、自堕落に呑み込まれる弱い人間の両方がそれぞれの命題として呼応し合い、数奇な作品へと生まれ変わった。

物語の最終盤、まるで海底の火山活動によって一晩のうちに島が出現するかのごとく、それまでの長い陰鬱が一気に晴れ、新しい形而上学的変異を見せる様は圧巻の一言。そして、救われない人類のひとりである自分もまた、世界中の海が凪いだ虚無の果てに現れる、穏やかで静かな風景に、じっと佇んでいる。












posted by 猫沢エミ at 13:44| パリ ☁| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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