2015年03月11日

再生。



あの日から4年経った朝、頭に浮かんだのは『再生』という言葉だった。
再び生きる、ということ。


ここしばらく、仕事の出来る器量良しの女友達に会う機会が多かった。普段はまったく痛んでいるとか、疲れていることを見せない彼女たちは、それぞれ職種もキャラクターも様々だけれども、過酷な状況にさらされて一度や二度は心身症をわずらった経験を持っていた。

かく言う私も、過去に何度か心が死んでしまいそうになった時期があった。その中で、もっともキツかったのが、前愛猫ピキを亡くした2010年から2011年の震災のあたりだったと振り返る。(この詳しい顛末は、著書『猫と生きる。』へ克明に書いた。)ピキ逝去の数年前に子宮頸ガンと筋腫のダブルパンチで2度の手術を経て、体力、ホルモンバランス、気力の三点セットが失われ、快活な過去の自分などもう二度と戻ってはこないと思い込んでいたのだが、ある日どん底まで堕ち自分の海底に触れた瞬間、浮上が始まった。と書けばちょっとポエティックで聞こえは良いが、ただ単に暗い顔した自分に心底うんざりし、うんざりするのさえ飽きてしまった、という方が正しいかもしれない。

自身の再生に選んだ仕事は、近所の弁当屋で週5日働きながらもともと生業としていた本業(作曲などの音楽関係の仕事、文筆業etc)を復活させるというものだった。当時、ごく親しい友達にしか話さなかった弁当屋のバイト。友達は心配し、人によっては「なぜ自分のスキルを活かさないの?弁当屋の仕事を卑下するわけではないけれど、あなたなら他にいくらでもできることがあるんじゃないの?」と言ってくれた。しかし、そのときの私には弁当屋のバイトがどうしても、どうしても必要だった。

人間は生まれてからずっと生きていると勘違いしがちだが、誰しも人生の中でかならず何度か死ぬ。身体がなくなるわけではないのだけど、本来の気力が堪え、従来いた場所から移動を余儀なくされ、発想の大転換をしなければ本当に二度と自分に立ち戻ることができなくなるような、精神の危機的死期だ。これまでの破天荒な人生の中で、私は何度かそれを経験していて『今回の危機的死期は、デカイぞ。』と感じていた。だから私は逃げた。今いる場所から、自分からできるだけ遠くへ逃げることだけが、自分を取り戻す唯一の方法だとやはりこれまでの経験で知っていたから。個性や感性など、本業ならば絶対条件になる道具はひとつも使わず、毎日同じ決められたことを淡々と遂行する体力勝負の仕事を求めた。頭をからっぽにして、マニュアル通りにお弁当を作る。何升もの米を研ぎ、何十個もの親子丼を作り、キャベツを刻み、油まみれの排水溝を掃除する。前の晩、原稿書きで徹夜になろうが、朝になれば決まった時間に厨房へ立ち、笑顔でお客さんを出迎える。クリエイションの分野にはいないタイプの同僚たち(とはいえ、この店は業務が過酷だったからか私以外はタフな中国人しかいなかった)と憤慨したり理解したりしながら上手に付き合ってゆくことで、自分の知らない社会に生きる人々の素晴らしさを学んでゆく。私の精神の底の方にへばりついている、自分をつまらなくするどうでもいいプライドはブラシで洗い落とされる油汚れのようにどんどん消えていった。

将来の展望などなにひとつなかった。考える余裕などないほど毎日疲れてへとへとだった。代わりに、弁当屋を始める直前まで苛まされていた不安や恐怖は、影も形もなくなっていた。中国人の同僚に「あなた、弁当屋の才能あるし経営者の素質もある。私たちを引き抜いて新しい弁当屋作るね!」と言われたときは「えー?!」と心底驚いたが、そのときの私は、本気で弁当屋になる勢いで仕事をやっていたのだと思う。それが私の逃げ方だった。できるだけ遠くへ、遠くへ...。


2011年3月11日午後2時46分、弁当屋バイトを終えて店から自転車に乗って自宅へ向う途中、大きな地震に襲われた。(この日の詳しい様子は、こちらをお読み頂ければ。http://necozawa.seesaa.net/article/190817839.html)浜町公園に一度は避難したものの、自転車をひっぱりながら余震で横揺れする新大橋を走って渡り、めちゃくちゃになった我が家でヘルメットを被ったまま情報を集めた。つけたTVからは、地元福島県白河市で生き埋め犠牲者が出た崩落事故の様子が飛び込んできた。夜には、美しい気仙沼が地獄のように燃え盛る映像が飛び込んできて、再生しかけていた精神は一瞬で木っ端みじんに打ち砕かれた。この地震で人を助けるために犠牲になった方、若くして命を落とした子供たち、そして愛する人を亡くし、今も苦しみのなかにいる方がいる。そんな方々の苦しみたるや想像を絶するものだし、追悼の祈りはずっと続いてゆく。けれど地震直後、個人の小さな危機や日々の悩みを言葉にすることは陳腐だと、暗黙の慎みが生まれてしまったようにも記憶している。でも、苦しみは個人個人のもので比べることなどできない。大きなものも小さなものも、その人が苦しいと思えば、それは立派な苦しみなのだと私は思うし、どんなときも個人の苦しみは謹んではいけないと私は考える。たまたま自分の人生において危機的死期だった震災前後、奇しくも日本全体が危機的死期へ突入した。次の日から再び個人的な再生と、日本の大きな単位での再生が始まった。


私はその後も逃げて逃げて、ある日ふと前を向いたら、そこに立っている自分の背中を捉えた。ぼんやりと佇む1年半前の自分。そいつの頭上をひょいと乗り越えて、うつろな自分を回収し、ひとつになったところで弁当屋のバイトを辞めたのだった。幸せなことに地球は丸い。逃げれば逃げるほど、遠くへゆけばゆくほど、その方向が360度どこへ向っていても一番遠い道を選べばおのずと自分の背中に出逢うように出来ている。

個人、そしてもっと大きな単位での苦しみからの再生に、深い祈りを捧げる。




posted by 猫沢エミ at 12:53| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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