2010年08月31日

ピキ、恋しや。

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今日で8月も終わり。ピキが死んで5ヶ月が経とうとしている。そして、ピキが亡くなる時期の3月末の日記を未だ書けないでいる。その頃の記憶は、すべて頭の中で克明に生きているけれども、いざ、そこへ降りてゆこうとすると脚がすくむ。どうしていいかわからなくなるのだ。とはいえ、ピキ逝去直後の、信じられない絶望期には、たった5ヶ月でここまで立ち直るとは想像もできなかった。あのときの私は、子を失った母だった。他に例えようがない。今も、子を失い続けている母であることは変わりがないが、泣き沈むことが一番の喪の仕事とは、私には到底思えなかったのだ。ピキは私を強い母だと思ってたはずだ。ならば、変わりなく、生き残った強い母としての姿を貫かねば。そう、思った。

ピキの葬儀が終わった翌々日、私は大切な打ち合わせを入れ、渋谷の街へ向かった。うまく話ができるだろうか?そもそも自分の脚で立って、歩いて、そこまで行けるだろうかと不安だった。けれど、いつもと変わりなく、私は話し、きちんと仕事をこなして、打ち合わせは無事に終了した。その場にいた誰一人とて、私が絶望のどん底にいたなどとはかけらも感じなかっただろう。その姿勢こそが、私の出来る喪に服すという意味そのものだった。ところが、打ち合わせが済んだあと、張りつめていた糸がぷっつり切れた。一歩渋谷の街へ出ると、地面からマグマのような悲しみが込み上げて、右も左もわからなくなった。打ち合わせ後、親しい友人と待ち合わせをしていたから、そこへ向かわねばならなかった。ところが、隅々まで知り尽くした渋谷の街が、まるで初めてきた地のように、歪み、たわんで、歩いても歩いても目的地へたどり着けない。途方に暮れて友人に電話をかけた。「右も左もわからなくなってしまった。」と。本当にそんなことが起こるのだなあ…右も左もわからなくなるなんて。無事、友人と再会し、線路わきの小さな焼き鳥屋に入った私は、友人にそうつぶやいた。焼き鳥を食べ、酒を呑みながら思った。それでも、私は大切な山を今日、ひとつ超えたのかもしれない、と。

それから本当にいろんなことと、いろんな思いの日々が5ヶ月続いて、今、私はピキが知っている本当に強い母へと戻れた。もちろん、へなちょこな日もたくさんある。けれど、ピキを失ったことで得た、莫大な何かが私をさらに強くしたことは確かだ。今でも毎晩、寝る前にピキの写真と骨に話しかける。「あー…ピキさん、お元気ですか?あの世ではお友達できましたかね?へえ、そう。そりゃ天国の縄張り争いも大変ですなあ。ママは、ちょっとくたびれてるけれども、がんばってますよー。見守っててくださいよ。」そして、ベッドに入ると、生前と同じようにピキの残像が素早く腕の中に滑りんでくる。ああ、忘れられるものか。あのやわらかな毛並みの手触り、おでこの匂い、のどをごろごろとならす姿、そして共通言語など必要のない、心と心がぴったりと寄り添い合う、あの感覚。奇跡だった。ピキがいた14年間は、それが当たり前のことではなくて、素晴らしい奇跡だったのだ。

「ママは、相変わらず世界中の猫が好きだけれども、ピキと同じくらい他の猫を愛せるのか自信がありませんよー。だから、これから新しい猫と暮らせるかどうかも今んところわかりません。そんなわけで、新しい子を探したりはしないんだけれども、もしも新しい子と暮らさざるを得ない状況になったなら、そのときは、ピキが認めた子を送り込んでくれた、もしくはあなたの生まれ変わりとして、大切に大切に愛する事にします。」天国のピキへ、ママより。




posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ | ピキ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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