2011年03月11日

日本が揺れた日〜東日本大地震・発生日


今、報道各所を始め、ツイッターやあらゆる掲示板が、本当に`未曾有´という言葉は、この惨状を表すものだと言わざるを得ない日本の大惨事について、必死に情報を送り続けている。そんな中、一個人の私ごときがブログで何かを綴るのは、無意味で不謹慎と思う方もいるやもしれない。それでも、私は書こうと思う。むろん、震源地に近い東北地方現地での被災ではないので、それを克明に綴ることなどできるはずもないが、公表によると震度5という日本の中核・東京での体験と情報を。海外に暮らす多くの日本人の方々も含め、遠方だからこそ、心配が募る方々に少しでも何かを伝えられたらと、おこがましくも思う気持ちをできれば許して頂きたい。美しい土地に住んで命を育んできた数多くの魂への深い哀悼と、そして今もなお、この未曾有の運命と戦う被災地の方々への心からのエールとして。



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14:00−ひとつ仕事を終えた帰り道、私は自転車に乗って東京都・中央区の人形町を夕飯の買い出しのため、巡っていた。我が家の御用達精肉店・日山にて、この日のお買い得品、豚ロースを2枚買い求めた。店頭にはいつも快活な販売員のマダムたちが笑顔で応対していて「あらっ、あなたのお帽子とても素敵ね!よく似合う。」と、Johnbulleのハットを褒めてくれたのだ。本当に良いものは、世代もジャンルも越えて人にわかるものだなあ。それがほんとのお洒落というものだな…そんなことを考えながら街を巡った。いつもとかわらぬ活気、晴れた空、平凡で幸せな空気が小さな街に満ちていた。



14:46−自転車が裏路地の遊歩道にさしかかったとき、突然ビルの中からたくさんの人たちが駆け出して、空をあおぎ始めた。最初は、このあたりをよく通過する広告飛行船でも眺めているのかしら?と、のんきなことを思っていた。それほど地震が起きた瞬間、自転車に乗っていた私には揺れがわからなかったのだ。しかし人々の顔つきがいつもと違う。悲鳴を上げたひとりのマダムに驚き、自転車をとめた次の瞬間、ものすごい揺れに襲われ、立っているのがやっとであった。古い小さなビルを含め、50階建てのマンションやオフィスビルが立ち並ぶ、商業地区のこのあたりの建物という建物が、はっきりと目に見える形でがたがたと揺れ、鍵をかけていなかった窓という窓がスライドして開き、そこから植木鉢やあらゆるものが落下してきた。

「ついに東京にも来たな。」

遊歩道に避難してきたサラリーマンのムッシュがつぶやいた。それが、この未曾有の大惨事の、東京での幕開けだった。しばらくして揺れはいったん収まったものの、ただの地震ではない、何かとんでもないことが起きている、という空気は色濃く漂い続けた。それでも、まだそのときは、事の重大さを正しく誰もが理解していなかった。むろん、私も同じだった。

そのまま家に戻ろうかとも一瞬考えたが、なんとなく行きつけの八百屋に立ち寄った。おそらく、動物的なカンどころではすでに非常事態を感じていたものだから、逆になるべく普段と同じことをしよう、しようと動いたのではないかと思う。八百屋のはす向かいのビルの外壁が無惨に崩落している。外壁がはがれ落ち、中の鉄骨がむき出しになっていた。店に入ると、呆然としたままのご近所のマダムが、ふらふらと野菜を選んでいて「あらやだ。うろたえて同じ品物2つも買っちゃった。」と、ひきつった笑顔を見せていた。八百屋での買い物を終えた私は、再びそのまま家に帰ろうかとも思ったけれど、もう一度あの遊歩道に戻って、その前にある和菓子屋さんで今年初めての桜餅を買おうと、思いついた。先刻の地震でビルを飛び出してきたたくさんの人たちが、まだそのまま遊歩道で待機していた。和菓子屋さんの店員さんは、ひきつった顔のまま「すごかったですねえ…。どうぞお気をつけて。」と桜餅の小箱を渡してくれた。その店から、このあたり一帯の避難場所となっている浜町公園までは、歩いても5分もかからないところにあった。先の地震を、それほど深刻には考えていなかったし(意識層では)浜町公園を通って家に帰るのは日常のルートだったので、そのまま公園へと向った。公演が終了したばかりで、お客さんが駅へと列をなしてむかう明治座の横をすり抜けて、浜町公園の入り口にさしかかったとき、さっきよりもさらに強い二度目の揺れに襲われた。わああああ!という叫び声と共に、近くのオフィスビルからたくさんの人たちがなだれ込み、公園はあっという間に人で埋め尽くされた。がたがたと激しく揺れる明治座のビルを皆が恐ろしい思いで眺めていた。そこで、初めて事の重大さに気がついたのだ。

恐怖にかられて、私はずっと「やばい、やばい、やばい…」と小さな声でつぶやき続けていた。すると、公園内にある中央区スポーツセンターの屋上から公共放送の「只今の地震は震度5弱…」というアナウンスが流れた。避難していた人たちから「えー?!そんなもんじゃなかっただろう。」という声が一斉に上がる。たしかに、そんな程度の揺れとはとても思えなかったのだ。怒号渦巻く中、後ろを振り返ると、隅田川の向こう岸に建つ、我が家のマンションが見えた。普段から、遠方での地震の長周波を丁寧に拾ってしまう、耐震高層マンション。最上階からひとつ下の23階にあるものだから、なおさら揺れは増幅する。もしかしたら、今家に帰るのは危険かもしれない…と思うも、携帯電話の回線はパンク状態で、誰にも連絡がつかない。家に帰らねば、今何が起きているのかを把握することもできない。余震が続く中、未だ公園内で待機し続ける人々の合間をぬって川沿いの遊歩道に出て、橋を渡り、家に戻ることに決めた。橋の上で再び先ほどのような揺れがきたら、この橋は持つのだろうか…と思いながら。


案の定、橋の上で、かなりの余震に襲われ、ぐわぐわと歪む橋の欄干を横目に見ながら、勢いよく自転車をひっぱり走って一気に向こう岸に渡った。そこから左へ折れて、小さな坂を下れば、公園から眺めていた我が家はすぐだった。マンションの外には住人が不安な面持ちで、連絡のつかない家族の帰りを待ったり、携帯電話を何度もかけ直そうとしていた。高層マンションは上の階に行くほど電波が弱くなるから、私の日常でも1階に降りて、電話をかけることがよくあった。

ロビーに待機していた管理人さんに状況を尋ねようとしていたら、やはりここの住人で初老のマダムとその息子さんが駆け込んできて「みなさん!津波がくるかもしれないの。地下駐車場にこのマンションの電気系統が結集しています。そこがやられたら、ここは機能しなくなる。今から手分けして、防御壁を作りましょう!」と促した。先ほどまでいた浜町公園に、こちらのマダムと息子さんも避難していて、私が去った後も残っていたらしいのだが、公共放送で、津波警報と高台に上がる指示が出たのだという。それを聞いて、急いでここへ戻って来たのだそうだ。しかもこのマダム、マンションが出来た当初からここに住んでいる住人さえも知らない、地下駐車場脇にある防御壁のありかもちゃんと知っていて、てきぱきと防御壁の設置を指示していて、すこぶるかっこいい。しかし、本当に隅田川の防波堤を越えて津波が押し寄せてきたら、こんな程度の防御壁が役にたつのだろうかと不安ではある。あるけれども、今はできることをやるしかないのだ。

防御壁の設置が終わり、すぐさま、川沿いに避難してる人たちに高台へ避難するように!と走り回って伝達した。けれど、中にはあからさまに「なにを大げさな。」という表情を浮かべる人もいる。いいのだ。嘘つき羊飼いになっても。後で「やっぱり大げさだった。」と思えるなら、こんなに幸せなことはない。オオカミが来るよ、津波が来るよ…とにかく駆け回って叫び、目に見える川沿いから人が消えた頃、急いで買い物を袋をかつぎ、エレベーターの停止したマンションの非常階段を一気に23階まで駆け上がった。

息を切らして、たどり着いた家のドアを空けて呆然とした。なんだこれは。棚も段ボールもとにかく積んであったもの、高さのあるものは倒れ、リビングに進むこともままならない。仕事部屋にいたっては、楽器や機材を収納している重い鉄の収納棚が前に50pもスライドし、傾いていた。本棚はあっけなく倒れ、ファイルやその他様々な書類が散乱して、デスク前にたどり着くことも難しい。傾いた棚の隙間から机の上に置いてあったPCが見えて、それが無傷だったことに少し救われた。ざっざっと、よけられる足元の書類を蹴散らして、ファイルを踏んづけたまま、片足立ちでPCに電源を入れた。それで、やっとツイッター、あらゆるサイトから、東北地方を震源とした巨大な地震が起きたことを知るに至った。

固定電話はルーターが物の下敷きとなって壊れてしまったのか、まったく使えない。携帯はもちろんのこと、リビングもひどい有様で、TVのスイッチまでたどり着くことができない。キッチンも悲惨だった。冷蔵庫のドアが全開して、中のものがことごとく床に飛び出し、ガラスの破片がちらばっていた。仕事部屋でも同じ現象が起きていたが、恐ろしく重い食器収納引き出しも前に50pもスライドしていて、どうゆう揺れ方をすれば、こんなことになるのだろうと首をかしげるばかり。そして何より、地震発生時、外の、しかも遊歩道や公園に偶然ながら居れたことがラッキーだったのだ。どこから手をつけていいものかまるでわからず、無駄に右往左往している間にも、かなり大きな余震が家を揺らし、気が気ではないので、ドアを常に開けたまま、頭に被れるものを…と探したら、昔撮影で使ったお洒落な乗馬帽が偶然足下に転がっていて、すぐさま被った。

ドッキリ大作戦のノロさんが被っているような工事現場の黄色い頑丈なやつがいいのに、何をこの非常事態にお洒落乗馬帽なんか…とも思うが、ヘルメット風なものがあっただけでも、十分ラッキーと言わざるを得ない。PC前の散乱物をとにかく片付けて、なんとか椅子に座ってキーが打てるようにした。

ツイッター、始めておいて本当によかった。これが第一の感想だった。私は基本的に通信過多というのには賛成できない部分があったのだけど、ツイッターのお陰で刻々とリアルタイムの情報が得られたし(混乱の最中だったのでガセも多かったが)何より、電話が不通の状況下で、友達の安否が確認できた上、コンタクトもできてずいぶんと支えられた。テクノロジーも情報も、使う人の心持ちと状況で価値がずいぶんと変わるものなのだとしみじみ思った。

現時点でわかる地震の状況を10分程度でつかんで、すぐさまバルコニーの外に広がる隅田川を見やった。水位がぐんと下がっていて、洒落にならない寒気を感じた。先ほど避難していた浜町公園からは、人が大挙して逃げてゆく様が見えた。東京タワーは、まだそこにきちんと立っていたが、これが現実なのかどうか、ひとつも確かな実感などないのだった。

ツイッターで川沿いに居る人の避難を呼びかけてから、スニーカーを履いたまま、リビングに踏み込んでなんとかTVのある場所までいって、最低限の物をどけ、スイッチを入れた。そこから先は、錯綜しながらもみなさんもご覧になったであろう、数々の恐ろしい情報がものすごい早さで流れ続けていた。まるで津波のように。

かなり大きな余震と小さなものを合わせると、揺れていない時間の方が少ないのではないか?と思うほど揺れ続ける家の中で、ときどき廊下に飛び出しながら、夜まで情報収集を続けた。実家のある福島県・白河市とは、むろんひとつも連絡がつかなかった。


夜中になって、Oが無事帰って来た。Oは仕事の出先ビルのエレベーター内で地震に遭ったのだという。箱が左右に無茶苦茶に揺れて、こりゃあケーブルが切れて落下死だな…と覚悟したが、なんとか1Fまで降りられたのだとか。本当に…!生きててよかったよ。すぐに食べられるものをと、都内を自転車で駆け回って、バルチック・カレー2人前と、フレッシュネスバーガーのクラシックを2個買って来てくれた。

「もう、どこにいっても何にもなくって。コンビニなんか、水もパンもおにぎりも全滅だ。」

交通機関が完全に麻痺した東京には、金曜日の帰宅難民が溢れ、家のバルコニーからも、都心部から千葉方面へ向う人の列が長く長く続いてた。男手が戻ってきたので、リビングのオーディオ棚を元に戻そうかと思ったが、余震があまりにも続くので、また倒れては危険とそのまま今夜は放置することにした。「ご飯食べないの?」とO。せっかく駆けずり回って買って来てくれたのだし、こんなときこそ食べねばならぬのだけど、食欲なんかどこかにいってしまい、カレーを半分だけ食べたのは夜半すぎだった。帰宅後、最初にスカイプで連絡を取った友達に「バスタブに水を貯めておいた方がいい。」と言われ、満タンまで備蓄した水が、ときおり、ばっしゃんぱっしゃん余震で揺れこぼれる音がする。

ところで、東京の津波は結局、私が嘘つき羊飼いとなって無事に済んだ。しかし、故郷福島をはじめ、親戚筋のいる宮城、岩手などの沿岸部では、信じれない大津波が押し寄せたという。バスタブから溢れる不気味な水音を聴きながら、水とはいったいなんなのだろうと考える。陸に住む生き物は、水によって生かされ、水によって死に至らしめられる。津波他、被害詳細の全貌は、まだ明らかではなないが、続々とこの世のものとは思えない映像が流れ込んでくる。


依然、白河の実家と不通。ゆうべもほとんど寝てないが、極度の緊張状態で寝付けず。服を着て、TVのニュースを流したまま、ソファで数時間うとうとする。


Photo1. 二度目の大きな地震発生直後の浜町公園の様子。皆、一様に不安な面持ち。

   2.一度目の地震で壁が崩落した浜町の古いビル。

   3.帰宅直後の我が家ーリビング。

   4.帰宅直後の我が家ーキッチン。






posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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