2011年05月02日

愛してるって言わない、愛。


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Photo:Monsieur SHUHO


3.11の大地震からこのかた、平置きされた本だのCDが山積みのリビングで、ふと2003年N°7「生本」(売れっ子作家さんの短編小説、エッセイ雑誌)を見つけて、なにげなく開いた先が、原田宗典さんの`御大切−隠れ切支丹の一言´という一編だった。大変面白い内容なので、ところどころ引用させて頂く。

『こうゆう風に言うと、まるで人でなしかろくでなしのように思われるかもしれないが、私は「愛」という言葉が好きではない。もっとはっきり言うなら、嫌いである。−中略−いつのまにこんなふうになってしまったものか、はっきりとは思い出せないが、おそらくかなり少年の頃から、私は「愛」という言葉に何か胡散臭いものを感じ取っていたように思う。−中略−テレビの連続ドラマなんかで、「けい子さん、愛してるよ。」などと言う俳優を見るたび、そうゆう俳優たちは、実は本当に愛していないからこそ、その隙間を「愛しているよ」という言葉で埋めようとしているとしか思えなかった。本当の本当に愛し合っている関係ならば、「愛してる」という必要はないのではないか…。−中略−でも、言わなきゃわからないじゃない、と反論なさる方は、男と女の関係を忘れて、男と男の関係を思い浮かべていただきたい。本当の友達同士というのは、「友達だよな。」などと言葉にして確かめあったりするものだろうか。そんなのが「友情」であるはずかないと、誰だって思うはずだ。−中略−私の経験上は「愛」を言葉にして確かめたがるのは、主に女性のほうであった。−中略−`愛´という言葉は、英語のLOVEに対する翻訳語として、明治初期に現れた新しい言葉であるということを物の本で知って、快哉を上げてしまった。長年、自分が「愛」という言葉に対して感じ続けてきた違和感は、勘違いではなかった。−中略−前世紀末になって、物の本を読んで、LOVEという言葉に、より適切な感じをあてた人たちがいたということを知ったのだ。隠れ切支丹たちは、LOVEの翻訳に困って、結局`御大切´という言葉をあてた。つまり、すごく大切にすること。それがLOVEの本質である…』


まさに!と膝をぽんと一発打った。そういえば、自分の過去の恋愛を振り返ってみると、「おそらく相手は、私から彼に向ける情熱ほど私のことを愛してくれてはいないだろう。」と思う相手に限って、「私のこと好き?」などと尋ねてみたりしていたように思う。若い…そしてうざい。(笑)と、今はすんなり思えるが、当時は本当に若く、思慮浅かったため、おのずとうざい言葉もそれなりに発していたのだよ。

そもそも、男は名前をつらけれるのを嫌い、女は何かにつけて名前をつけたがる。パンツにも、カバンにも(それはお母さん。笑)っていうのは冗談だとしても、「ねえ、私あなたの彼女よね?」だの、「彼がなかなか結婚してくれって言わなくて…」だの。うざい、うざいよ。原田氏のおっしゃる通り、男はとてもシンプルな生き物だから、愛している分だけの態度しかとらないし、とれない。その態度から、愛を読み取れないのであれば、言葉で確認しなくとも、たいして愛してない、ということなのだ。そんな動物的な感情を言葉で縛ったり、関係に名前をつけることでどうにかしようと思うのは、女々しいひとりよがりである。形にとらわれて、シンプルな男の`御大切´に思う気持ちが見えない女もたくさんいる。せっかく愛されているのに、しつこく「私のこと好き?」などと、言葉で確認しようとすれば、男は冷めるにきまってら。

でも、アムールの国フランスじゃ、恋人同士はしょっちゅうジュテーム、ジュテーム言い合ってるんでしょう ?と、思っている方もいるかもしれないが、それもまたちょっと違う。彼らのJe t’aimeは、私たち日本人が思うよりも、ずっと重く、深い。むしろ、子供に向けられて発する機会をよく見る。もちろん、人によりけりで、簡単にJe t’aimeを使う男女も見ることは見るが、あまり知的な感じがしない。むしろ、恋人同士が日常互いの愛を確認する言葉は、J’ai confiance en toi−君のことを信頼している。とか、Je pense à toi−君のことを思っているよ。と、aimer−愛する、の入らない具体的なフレーズが多いように感じる。そこには、愛してる、などと確認する必要のない、互いを尊重し、大切にしているというニュアンスが含まれているのだ。

本来、愛は空気のようなもので、すかすかの言葉の虫取り網で捕まえておけるような簡単なものでもない。一瞬一瞬色を変え、自在に変化する。寄せては返す波のように…と愛の本質を歌いあげたのは、セルジュ・ゲンスブールの`Je t’aime,moi non plus−あなたを愛してる。俺もそうじゃない。´俺も愛してる。のではなく、俺もそうじゃない。のである。君が俺を愛していると今言ったその気持ちは、明日には、もしかしたら1秒後には、違うものになるかもしれないのと同じく、俺もそうじゃない。のである。わかるだろうか?愛をつなぎ止めることや、飼いならすことなど出来ないところに、真の苦しみと喜びがある。

そういえば、先日初めて開いた猫沢エミのフランス映画教室N°1で扱った、クロード・シャブロルの「悪の華」でも、晴れて恋人同士になったミシェルとフランソワが、劇中、一言もJe t’aimeを言わなかったことを思い出した。見ているこちらが、思わず微笑んでしまうほど、ふたりの恋はフレッシュで深いものなのに。それは、やっぱり彼らがJe t’aimeという言葉など介入する隙間もなく愛し合っているという証なのだと思う。


愛を捕まえようとしたりしてはいけない。所有したり名札をつけて、冷蔵庫で長期保存しようとすれば、次に扉を開いたときには、愛はもうとっくに賞味期限が切れて、かびがはえていることだろう。愛する人の気持ちを自分の周りに引き寄せる。そして自由に泳がせる。また、自分から相手への愛も、勝手に入り込んだりしてはいけない。相手のまわりを自由に漂い、包み込む。言葉で繋ぎとめないことで生まれる、自由と儚さが、互いを常によく見合って、大切に思い合う、一番重要なファクターになるはずだ。


Photo:2011年4月24日、渋谷LIAISONで行われた一回目の、フランス映画教室風景。
   次回は、7月10日(日)の予定です。




posted by 猫沢エミ at 01:44| パリ ☁| フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする