2011年09月11日

空気を読む。



長らく、仕事とは関係のないプライベートな長文を書いていなかったものだから、長文でなにかを繰り出すことに、少々衰えを感じた先日。某友人とこんな話をしていて、はっとしたことがあった。

「文章を書ける人というのは、空気が読める人だよね。」ほう。これだけを聞いても、ピンとこないかもしれない。感じたことを書く、という行為とその場の空気を読む、というのは一見するとまるで関係がないように思える。ところが、これには密接な関係があるなあと、するめ烏賊なぞかじりながら、私は杯の酒をくいと呑んだ。

私がブログを立ち上げて、それこそ365日、日記を書き続けた時期が2001年から約8年間続いた。平均するとだいたい毎日2000〜3000字。ちょっとしたコラム並の文字量である。大切なのは、文字の多さではなく、それを毎日繰り返したというところ。初期のものを見ると、目も当てられぬほどひどい文章で、赤面する有様なのだけど「まあ、いいたいことはわかるよ。」といった程度のものだった。それが、年を重ねるごとに上達してゆく様がわかる。別に、文章力を上げたかったから始めたことではなくて、日々感じる様々な事柄を、忘れてしまう些細な色彩を形にして、吐き出し綴るのが楽しくて仕方なかったのだ。しかし、書いた文章を少し後になって読むととたんに凹む。自分の弱点が丸出しで、みっともなくて恥ずかしかった。文章を書く、そして推敲する、という行為は、まさに自分自身との対峙に他ならなかった。っていう話をだね、その夜の友人にすると「それだな。その長年の自己分析が、その場の空気を読むっていう瞬発力の源だ。」と言った。おなじくするめ烏賊をかじりながら。

なんでもいいや。合コンでも呑み会でも、どうも自分をうまく出し入れできない人がいたとする。そうゆう人はもしかしたら、文章を書くのが苦手な人ではないだろうか?巧い下手には、多少の資質もあろうから、問題にはしない。ただ、何かを感じたときの言葉の繰り出しが遅くはないか。そして、そうゆう人は、あまり本を読まない人ではなかろうか。いや、たまに本をものすごく読んでいるわりには、まるで空気の読めない人にも遭遇したりする。そうゆう人は、読む、という行為が知識を得る、という機械的な発想で留まってしまい、やわらかい感情まで落とし込んで身にすることはしていないのかもしれない。知識は、最終的には応用し、新しいもの、自分だけのオリジナルを作り出す種でしかない。箱だけをコレクションしても、そこへ入れる何かは、自分だけのオリジナルでなくてはいけないと思うのだ。テクニックとは、そうした説明のつかないものを手に入れる分だけあればいい。小手先で巧くなることが最優先になってしまうと、からっぽの箱で埋め尽くされた身動きのとれない部屋に住む、本末転倒な住人になってしまう。それがどんなに広い豪邸だとしても。

百本ノックブログ時期がある程度過ぎた頃、私はパリに移り住んで、今度は日本語そものに枯渇した時期を迎えた。「メルシー僕」だの「蛸足十本、烏賊足百本」(←知ってる?笑)だのにうんざりして、フランス語学校に通うかたわら、池波正太郎の世界にのめり込んだ。日本からパリに戻るときのスーツケース半分が、池波先生の単行本で埋め尽くされた。簡素で丁寧な、誰にでもわかる美しい日本語で綴られた闇の世界、悪の世界。それを突き抜けた人間的な善の世界が、1930年代の家具に囲まれた古めかしいパリのアパルトマンで、夜な夜な繰り広げられた。そうして今度は読書100本ノックを経て、また自分なりの文章表現に変化が起きた。たぶん、これからもその繰り返し。感じ、書き、枯渇し、読み、そしてまた書く。自分が表現したいもののゲージが広がった分だけ、必要に応じてテクニックを高めながら。

ぴんぽんぱんぽん。ちなみに、最近のめりこんでる感ありのツイッター(笑)は、長文ブログよりも実は、はるかに高度な言葉道場であることをお知らせします。ツイッターは速いタイムラインの中で、いかに空気を素早く読み、繰り出すかが重要。ある意味、毎日が言葉上での合コン参加といったところか。まだまだ、自分の中にある他の弱点要素ゆえに、野暮なことをつぶやいたりもして、修行が足らんのですが。

しかし、お母さんや先生はよく言ったものだなあ。「日記を毎日書きなさい。」
や。最近怠っていたもので、私も初心にかえってブログります。(ほんと!)










posted by 猫沢エミ at 14:33| パリ | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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