2011年09月23日

服欲



昨日、ツイッターで「服欲」についてつぶやいた。日比谷駅構内にて。渋谷Liaisonにて定例でやっているフランス映画教室の打ち合わせを、映画宣伝業を営む合方のおぐちゃんと終え、突然降り出した雨を避けてタクシーで日比谷に向ったのだ。おぐちゃんは、10月渋谷シアター・イメージフォーラムで公開するマッテオ・ガッローネのやくざな映画「ゴモラ」の解説演説をするために、でっかいパネルを抱えて立派なビルに駆け込んで行った。ひとり残された私は、せっかくここまで来たのだから有楽町あたりまで足を延ばして、ウィンドウショッピングでもしようかと一瞬思ったが、雨が振っているという夢のない理由で、内幸町から三田線に乗ってしまった。いつものごとく間違えて反対方向に…。帰宅を急ぐサラリーマンの波を泳ぎながら「私という人間は、つくづくつまらない女だなあ。」と、素直に思った。せっかく女性性で生まれたというのに、ウィンドウショッピングもしないなんて。

コロムビアから猫沢エミとしてデビューした90年代後半当時、私は毎月何本もの雑誌に特異な猫顔の持ち主として、ファッションモデル的な立ち位置で登場していた。その呼び名は「おしゃれ有名人」であった。力のあるフォトグラファーさんやスタイリストさん、ヘアメイクさんと一緒に美しいページを作る仕事は楽しいものだったが、正直、本当の自分と誌面に載って世に出てゆく猫沢エミという人は、解離していたように思う。「切り売りされて…」などという甘えた感慨はない。解離していたのは、自分に軸がなかったからで、レコード会社のせいでも事務所のせいでもなかった。

季節の始め頃になると、どこかの雑誌から「猫沢さんが最近購入された先取り秋冬ものを、ぜひご紹介ください」と依頼があったが、実は毎回これが悩みの種だった。だって、当時の給料は今だからぶっちゃけるけど、15万円。雑誌以外にTVなどのレギュラー番組も持っていたので、毎回同じものを着るわけにもいかず、しかしお金もなく。ところで通常、事務所というものは、所属アーティストのこうした経費をきちんと出してくれるものだけど、私の事務所はひとつも出してくれなかった。それでどうなるかと言えば「衣装代立て替え」という名の借金へと自動的に積まれ、年に一度出す、命がけで書いた楽曲アルバムの印税を根こそぎもっていかれて、そこでの収入もゼロになる仕組みだった。

服を買うこと、身の丈に合わないおしゃれ有名人という姑息なイメージをつなぎ止めるのは、仕事とはいえとても苦しかった。もちろん、服そのものは好きで自分でチョイスしていたから、ブランドに勤めている友達にこっそり社割で買ってもらったり、スタイリストさんから撮影で着て気に入ったものを安く譲ってもらったりもしていた。操り人形だったわけでは決してない。あの頃、雑誌に登場していた自分は、確固たる私であったのだけど、それでも服という存在に振り回され、疎ましかったのは事実だった。

それから私は独立し、パートナーと始めた会社が軌道に乗って、お金に困らない時代が到来した。私はむさぼるように服を買った。そして、不況時代がやってきて、またお金に困窮する時代を迎えた。パリにアパルトマンを持っていた最終期である。ところが、そこで初めて私は、服に対してはっきりとしたスタイルを持つに至った。買えるチャンスも物も限られた中で、物を選ぶという行いに真剣に取り組んだのは、生涯においてそのときが初めてだったと思う。その結果、自分に必要なのは、素材がよくて着心地がいいもの、長く飽きずに着れるシンプルなもの、服に着られず自分が着こなせるもの。この3つのポイントを具えているものだった。

ときたま、デコラティブな遊びの利いた今期限りならいいだろう服をかわいく着ている友達を見たりして「ああゆうの、着るのいいな。」と思うこともある。でも、最終的には「自分には要らないもの。」となる。大事なのは、欲しいものではなくて、自分には何が必要でないのか?を知ることだ。そのかわり、気に入ったものは2枚まとめて買うこともあるし、穴が空こうが脇が裂けようが、何度もちくちく縫って着続ける。さすがに、あまりにも繕い箇所の多いものは、潔く手放そうと思う今日この頃ですが。

ちなみに、服は面白いように飽きのきやすい存在でもあるのだけど、どの服も買った当時は「これが一番」で、なぜかいつのまにか10番手くらいに格が下がる。もう持っているのに、似たようなものの新品に手が出そうなとき、すでに持っていて古女房化している服をまじまじと眺め、初めて出会ったあのときの嬉しさを蘇らせてみたりもする。そんなわけで、私にとって服とはたくさんは要らないもの、である。その代わり、いいものしか買わない。いいもの、とはそれに見合った素材と金額を兼ね備えたコストパフォーマンスの良いもの。

おそらく「服欲」のコントロールとは、そのままお金に対するセンスと直結している。お金に使われる人は、服に着られてしまう人。お金も服も、センスを磨けば自分の支配下に置いて、彼らの本当の輝きを引き出すことができる。だから、貧乏な時期も、お金を持ってそれを使う喜びをつかの間感じる時期も、人生の中では両方必要だと私は思う。

ところで、私の人生の中で数少ないお金に困らなかった時代に無造作に買った服たち。現在の考え方では決して買わない類いのものもあるけれど、案外いいラインナップで、貧乏期をうまくフォローしてくれていた(笑)袖がボロボロになったZUCCAのパーカーも、今はなきbali barretのカーディガンも、すでに戦友レベルの付き合い。まだまだ大事に着続けます。











posted by 猫沢エミ at 12:36| パリ | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする