2013年08月08日

メールは難しい。

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“20年くらい前”が、ついこの間のように感じる年齢になったものだなあと思いつつ。

ほんの20くらい年前まで、人間にとっての主立った意志伝達ツールは【会う・電話・FAX・手紙】の4つしかなかった。そこへパーソナルコンピュータなるものが現れ、メールといういつでもどこでも送れる便利なツールが生まれて、人間社会のコミュニケーション手段は鮮やかな変貌を遂げた。

書き損じて紙を捨てることもなくなり、到着までの時差も計算にいれずに済み、遠方に暮らす人や、しょっちゅうは会わないけれども大切な人とのやりとりが、前よりもずっとスムーズにできるようになった。それなのに、メールを介した人とのやりとりに問題が起らないか?といえば、そんなことはひとつもない。それどころか、メールが現れる以前よりもずっとコミュニケーションに関する問題は増えたように感じる。


メールは難しい。日々、メールを仕事の手段として使っている人ならば痛切に思うことではないだろうか?私も苦い経験多数。先方から頂いたメールを特に夜中、疲れているときに読んでしまえば失敗率は格段に上がる。なぜか責められているような、せかされているような読み方をして感情のままに返信をすれば、とたんにいらぬ誤解へと発展する。冷静にそのメールを翌朝読み直してみると「あ、なーんだ。」となることはよくあるのに。この真夜中のラブレター現象でなくとも、手書きの手紙よりもメールはずっと読み手側の感情に添うところがある。

本来、手紙・メールは書き手の意志や情報を形にしたもので、読み手の受け取り方が優先されるものではない。手紙の場合は、その人の書き癖や書き迷った時間の流れ、気持ちを映そうとする懸命さが文字そのものに現れているから、読み手の余計な感情が入り込む率が低くなる。ところがメールの平面的な様相は、たとえるならばミラーコートの紙のようなもので、その文面が整っていればいるほど、書いてあることの真意が見えなくなり、逆に反射する文面に自分の顔が映りこんでしまうといったところか。


ここには日本語そのものの難しさも手伝う。主語が「私」「俺」「僕」など、相手の立場によって変化する言語は、世界中の言語を見渡しても珍しい。女性、男性、子供など、立場によって変わる語尾もしかりだ。これは、日常の表現においてジェスチャーや表情に乏しい日本人が、可能な限り言葉だけですべてのことを伝達しようと務めた結果ではないか?それでも、実際に会って話をしていれば、その人の表情や声色から何を伝えようとしているのかはすぐにわかる。もともと恐ろしく情報量の多く難しい日本語を、形式にのっとったメールで平面化してしまうと、とたんに「本当は何を考えているのか?」がわからなくなる。そこへ読み手の、その瞬間の感情が映されてしまうのだ。どうとでも取れるメールの文章に勝手な解釈がのったとき、いらぬいざこざは生まれる。


日本語のメールの達人になるには「書き」ではなく「読み」なのだと私はいつも思う。自分の感情を常に横へスライドさせて、書いてあることの真意だけを読み解こうとする気持ちが。それでも真意が見えないとき、自分の感情が相手のメールへ馬乗りになってしまうときは電話をかける。

それにしてもいつも思うのが「パソコン、メール、携帯電話が生まれたことで破談になった仕事や恋や人間関係の数と、それらが生まれなかったことでダメになった数のどちらが多いんだろう?」について。多分、答えは五分五分。そこに不完全で愛らしい人間本来の限界と、未知の可能性の両方が横たわっている。



Photo:仕事の請求書や資料送付のときには、かならず一筆箋での短いお手紙を入れている。愛用しているのは銀座・鳩居堂のもの。習字を長くやっていたせいか、縦書きでないときれいな字が書けない。時には筆を使って書くことも。






posted by 猫沢エミ at 16:23| パリ 🌁| なんてことない日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする