2012年05月02日

観世栄夫という人。


夕べ、久しぶりに敷島(安治川)親方と、「ミュージシャンと猫」の著者・佐々木美夏さんとで人形町の某老舗居酒屋で呑んでいた。興に乗ったところで、都営浅草線に乗り、浅草の某所にある隠れ家的バーへ、ごとごと揺られて向った。

そのバーは、先代のマスターを偲ぶエゴラッピンの森さんをはじめとする有志の方々で開いている、なんとも気持ちのよいバーだった。薄めた酒、氷で薄くなる酒が嫌いな私は、奄美大島のラムをストレートでくいくい呑み、この世とあの世の境がだいぶ薄くなったあたりで、憧れのちわきまゆみさんやいとうせいこうさんがやってきた。

せいこうさんと、どうしてその話になったのか記憶がおぼろげなのだけど、気づいたら、観世栄夫さんとお能について熱弁をふるっていた。(ような気がする。笑)おそらく、新作CD【Pyramidia】をお店でかけて頂いて、それを聴きながら森さんとせいこうさん、3人で話をしていての流れだと、おぼろげながら思うのだけど。



なぜ、いつ頃、私がそこまで能に夢中になったのか、それすらもよく覚えてないのだが、大学時代、とにかく私は能が好きだった。とはいえ、貧乏学生の身分でチケットの高い能楽堂の公演に行くことはできなかったから、もっぱら神社の境内で執り行われる薪能(たきぎのう)や漁火能(いさりびのう)など、無料もしくはチケット代がとても安い能舞台をよく観に行っていた。

ある年の夏、神奈川の三崎口の漁港で観世栄夫さんの漁火能があるというので、喜びいさんで出かけた。能にはいくつかの流派があるが、とくに私が心惹かれたのは、動きの少ない静寂な流派と言われている観世流のものだった。その中でも、観世栄夫さんの舞には、伝統文化の所作を超えた凄みを感じて、私の中のトップアイドルとして君臨していた。(後、彼が伝統芸能の枠を遥かに超えた、この世界の中では革新的なアーティストであることを知る。)

その日の情景は、今でもありありと思い出すことができる。三崎漁港の中に設えられた能舞台。その背後に無数の漁火が、舞台両脇の松明と共に浮かび上がり、まさにあの世とこの世の境が出現した。お客さんは浴衣を着た近所のおばちゃんや子供たち、若いカップルなどで、とりたてて能に興味がある人ばかりの堅苦しい雰囲気はひとつもなかった。鼓と能管の笛の音に誘われるように、面をつけた観世さんが静かに舞台へ現れた。息を呑んでひとつひとつの所作に魅入れば魅入るほど、なんともいえない眠気が増し、眠らまいとするがんばりの狭間で、動くはずのない面が笑ったり、泣いたり、鬼になったりするのである。見手の心が鏡のように面へ映り、自分の奥深い感情と対峙しているかのようである。なんというナチュラルトリップ!

素晴らしい舞台を見終えて、熱に浮かされたように電車に乗った。線路の切り返しがきつい車内は大げさに揺れて、立っているのも難しいほど。ふと進行方向を見やると、なんとまあ、先ほどまで舞台におわした観世栄夫さんが、ごく普通につり革につかまって立ってらっしゃった。しかも、楽師の方々を皆座らせて、ご自分はひとり立っているのである。私は心底驚いた。観世さんほどの方ならば、黒塗りのベンツかなにかで送り迎え付きだと勝手に想像していたから。おそらく、安価なチケットの漁火能は、予算がなくて出演者も電車移動だったのではないかと勝手に推測する。

観世さんの姿を捉えた私は、何の躊躇もなく勝手に体が動いて、今しがた買ったばかりのパンフレットを抱えて、突然声をかけていた。「あのう…お疲れのところすみません。先ほど舞台を観たものですが、大ファンです。ぜひサインを頂きたいのですが。」舞台ではあれほど大きく見えた観世さんは、とても小柄な方で、能面にまけないくらい個性的なオーラを放っていた。突然話しかけられて、一瞬怪訝な表情だった観世さんだが、じっと私を見据えるとすぐに顔をほころばせて「ほほう。あなたはお若いのに能がお好きと見える。なかなか見込みがありますな。」と言い、次に「電車がひどく揺れますので、サインをしている間、私の体を抑えていてくれますか?」とおっしゃった。私は、何もそんなに強く掴まなくてもいいだろうにというほど、渾身の力を込めて、観世さんの両肩をがっしり抑えた。その夜、頂いたサインを部屋に飾ってちっとも眠れなかったのを覚えている。


それからひと月くらい経った頃だろうか。いつものように大学の打楽器研究室で練習していたら、マリンバの神谷百子先生に呼ばれた。「エミちゃん、たしかお能が好きで、先日も観世先生の漁火能行って来たって言ってたわよね。私のところにその観世先生から仕事が入ったのだけど、スケジュールが合わなくて。よかったらやってみない?」夢かと思った。それでなければ、あの日から実はずっとこの世とあの世の境を抜け出せなくて、どこか別の次元で生きているのかと思った。その仕事とは、観世さんが能の考え方でシェイクスピアの「マクベス」を演出なさるツアー公演の打楽器奏者というものだった。一介の無名の学生が勤まるものなのかという不安を遥かに飛び越えて、「やらせてください!」と前のめりに返事をしていた。

それからほどなくして稽古が始まった。現場に入ってみて改めてわかったことは、その舞台はとても前衛的(または、演劇の根本に触れる非常に原始的な)な観世さんの考え方から生まれたものであるということだった。普通、シェイクスピアの劇には、各役柄に合わせた豪華な衣装が用意されるが、出演する俳優さんは、すべて黒一色のシンプルな服をまとう。音楽はオーケストラではなく、フルート1本と、スネアドラムに少々の小物のみのマルチパーカッションのみ。それが、全幕を通して、舞台の手前につくられたやぐらに出っぱなしとなる。音楽は、ざっくりとした決まり事はあるものの、ほぼ即興で、その日の役者さんの声色やタイミングでまったく違うものになるというものだった。まさに、能の考え方だった。色のない舞台で、役者の言葉の力のみでシェークスピアの言わんとする真意を表現する。それは、動かぬはずの能面を言葉で動かし、伸び縮みするはずのない舞台を自在に空間を歪めて、森にしたり、山にしたりする能舞台の世界そのものだった。1本のフルートは能管の役目をし、些細な音の高低や強弱で、すべての色を決める。パーカッションは鼓の役目で、打ち込む音のタイミングや、やはり強弱で舞台の奥行き、パースを決定するものだった。とんでもない大役を引き受けてしまった…私は正直おののいた。


「シェークスピアは、言葉の劇である。その言葉そのものを浮かび上がらせるために、余計な演出を極限まで排除する。」と、初稽古の日、観世さんはおっしゃった。稽古は厳しかった。役者さんが元来のシェークスピアに少しでもとらわれていれば、途端にゲキが飛ぶ。「なんだ今のセリフは!そんな力のない言葉でどうして王だと客にわかる?!」役者さんは、演じることそのもの、言葉の力について完全に既成概念を捨てねばならなくなり、皆が皆、バーナムの森に彷徨うことになった。言の葉が生い茂る暗い森を、その意味を求めて手探りで稽古は続いた。

そうして、東京永田町の星陵会館をかわぎりに、全国ツアーが始まった。もともと、能という幽玄の世界が土台になっているからかもしれないが、初公演の星陵会館ではよく出ると噂のあの世の方が、本番の舞台を横切るなどのハプニングもあった。ただもう、こちらもあの世に片足をつっこんでいるような時期だったので(笑)今日のスペシャル配役くらいにしか捉えてなかったのが、今考えると相当可笑しい。


舞台がはねると、観世さんは「みんなは大勢すぎて連れて行けないから、ひみつね。」とウインクして、フルートの大和田葉子さん(この方は、当時すでに国際コンクールで数々の賞を受賞していた日本を代表するフルーティスト)と私を呑みに連れて行ってくださった。そこで、私はありったけの質問と、当時考えていた、西洋音楽と伝統邦楽の違いから見える、音や空間の考察について、延々と話を聞いて頂いた。あの頃の私は、現代音楽の打楽器について、正直行き詰まり、悩んだりあれこれ考えることが多かったのだ。

西洋音楽は、ひとつの音を出す前に、かならずその音の長さに見合う“呼吸”をする。わかりやすく言えば、“振りかぶり”や“前拍”だろうか。1、2、3、4という明確な拍子のある西洋の音楽は、まず無造作にある時の流れを、拍や小節で区切ることから構築が始まる。それに対して能などで使われる伝統邦楽(馴染み深いものだと、神社なんかで流れる結婚式の音楽など)は、ある程度の枠はあるものの、西洋音楽に比べれば明確な拍を感じさせない。能の舞台でいつも驚愕するのは、鼓と能管の演奏者が、まったく振りかぶりもない中で、ぴったりと打点を合わせることだ。(もちろん、前拍がみられる曲もある)西洋音楽にどっぷりと浸かっていた私には、その難しさや優雅さに毎度のこと度肝を抜かれた。能舞台の奥行きやパースを、音で自在に変えることができるのは、拍や拍子にとらわれない、ただひと筋の時間の流れにのっとった音の置き方があるからなのだ。というような話をですねー、酒を呑みながら長々長々と聞いて頂いたわけなんですよ。観世さんは「とても興味深い。私も君と同じ考えです。」だとか「なるほど、なるほど。」などとうなづいて、孫ほども違う年の駆け出し若輩者の話を辛抱強くいつも聞いてくださった。


あのときの、観世さんとすごした数ヶ月。お話した数々の事柄は、私の中に、宝物のような布石を残してくれた。私が能の世界に強く惹かれたのも、西洋音楽一辺倒で息詰った思考に、対峙するひとつの答えを見出したからかもしれなかった。

ツアーが無事に終わり、観世さんとの逢瀬もなくなったが、その後も能のファンであったことは確かだ。ただ、そのツアーをきっかけに私の中で新しい世界への欲がうまれて、忙しくなってしまったため、なかなか観世さんとその後、お会いするきっかけが見つからなくなってしまった。2007年に、観世さんが大腸がんで亡くなったとき、心の底から後悔した。行こうと思っていた能舞台がその何年間か前にあったのに、行けなかったからだ。観世さんは、どえらい方だった。そして、大抵のどえらい方がそうであるように、気さくで、偉ぶったところがひとつもない、チャーミングで可愛い方だった。

そういえば「マクベス」稽古初日は気恥ずかしくて言い出せなかったのだが、「あの日、漁火能の帰りに電車の中でサインをお願いしたのを覚えてらっしゃいますか?」と、何度目かの稽古の際に聞いてみた際、観世さんはちょっと照れながら「覚えていますとも。なんだか気恥ずかしくて言えなかった…とりゃあー!」と、いきなり柔道の技をかけられて、床にたおされたっけ。(笑)そのときの少年みたいな笑顔と、してやったりな表情で、観世栄夫という人は私の中に今も生きている。








posted by 猫沢エミ at 19:29| パリ | 芸能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする