2014年03月16日

Bathガス爆発


PTINTANIA-プランタニア/Emi NECOZAWA & Sphinx ワンマンライブ 
2014年4月11日(金)@渋谷gee-ge
只今絶賛ご予約受付中!どうぞお早めに♡



今朝はマンションの消防点検中にエラーが生じて、全館のガスが午前中いっぱい止まるという珍事があった。ガスと言えば思い出さないわけにはいかない憂鬱な記憶が多々ある。Mixi日記時代から私のブログをご覧になっている方や、近しい友達には再読感の強い話で恐縮なのだけど、自分の記憶メモとしてもここに記しておきたい。


私が生まれた昭和40年代、我が家にはお風呂がなかった。貧しくて…という経済的な理由からではなく、ただ単に「作り忘れたのだ。」と後に父は語っている。忘れる?風呂を?なぜ?!と思われるかもしれないが、あの家の人ならば風呂を作り忘れるくらい朝飯前だということは、「毛考」をお読み頂ければあっという間にご理解できよう。実家は1階で商売を営んでおり、店鋪併用住宅という店鋪が最優先に作られた実におかしな間取りをしていた。当時、まだうちの田舎では珍しかった鉄筋コンクリート3階建て。3階にはBBQもできそうな広いベランダが作られた。そのベランダの一角に、ある日突然風呂場が出来た。祖父母の寝室の横に設えられた先祖代々の写真がずらりと並ぶ仏間に、トイレと風呂場が無理矢理とってつけたように作られてしまった結果、巨大な仏壇がそびえる仏間が自動的に脱衣室とならざるを得ず、鈴(仏壇にあるちーんという鐘)を巨大にした磬子(けいす)は脱衣籠に成り果てた。マリー・アントワネットはオーストリアからフランスへ腰入りする際、糸一本すらオーストリアのものをまとってはいけないと、国境近くの川縁でパンツまではぎ取られて素っ裸にされた逸話が有名だけれども、「アントワネットもこんな気持ちだったのかも…」と、毎晩仏さまの前で一糸まとわぬ姿になりながら、子供心に一方的な親近感を覚えたのは言うまでもない。

ところで風呂を作り忘れるような家人たちが作る風呂とは一体どんなものだったのか?一瞥すると風呂の入り口は子供の勉強部屋の木製ドアとなんらかわりがない。木目合板のドアを開けるといきなりそこは風呂。しかも正面には巨大な透明ガラスがはめ込まれた窓になっていて、外から丸見え。(補足:風呂場が作られた当時は、まわりに高い建物がなく人が覗き見る心配はなかった。しかし数年後にはどんどんビルが建てられ、特に女性陣はエデンの園にて呪われた蛇が地を這うように入浴することを強いられた)その窓の手前に、当時とはしてはこれまた珍しかった西洋風の底が浅くて長い寝そべり型のバスタブが導入されていた。風呂はどんなにお湯をためても浅く、肩までお湯に浸かるには寝そべった形で定員一名。おかあさんと一緒に入れば2人とも半身浴に甘んじることとなる。まったくくつろげない、まったく温まれない。喜んだのはこのバスタブの導入を決定し、珍妙な風呂場を独断で設計した父だけである。彼は映画『ゴッドファーザー』に心酔し、ドン・コルレオーネを誰よりも崇拝するエアーマフィアだった。「俺は朝日を眺めながらこのN.Y Cityで(実際は福島です)酒の風呂に浅く溺れるのさ…」かくして何もかもがとんちんかんな猫沢家の風呂場は生まれた。しかし本当の悲劇はこれからなのであった。


ある週末の晴れた午後のこと。私は仏間兼脱衣室横の祖父母のベッドに寝転がり、漫画を読んでいた。そこへ、数日前から居候をはじめた叔父のHがいそいそとやってきてこう告げた。「今夜はボクがお風呂を沸かすよ。」叔父は奥さんが出産のために実家へ戻ってしまったため、ご飯に難儀し、しばらく兄の家である我が家に住み暮らすこととなったのだ。彼は市内の公立高校で物理を教える傍ら、民間の物理学者として数々の賞を受賞している一族には大変貴重な数少ない真人間だった。風呂場の手間にある巨大な旧式のガス給湯器前で、なにやら首をかしげる叔父を横目に漫画を読み続ける私。ダイヤルをカチっカチっとひねる音と共に、叔父の「あれー?おかしいな。」という台詞が聞こえた。「これ、壊れて…」という叔父の第二声が終わるか終わるや否や、どっかああああああああん!!……ものすごい爆風が押し寄せ、かろうじてベッドの高い背もたれに守られた私のちいさな身体は無傷で済んだ。あたりには白い煙がもうもうと立ち上り、なにひとつはっきりと形をとらえることができない。その煙の中から、「ごほっ…ごほ…」という弱々しい咳払いと共に、コントでよく見る“化学実験室で大爆発。博士、髪の毛逆立つ。”を体現した叔父がぼろぼろの衣服と共によろけながら現れた。私は彼に向って大丈夫?!…と心の中では叫んでいたのだと思う。しかし口から出た第一声は「叔父さん…似合う!」であった。そう、彼は専門が物理ではあったが化学にも精通していて、白衣とフラスコで実験室にいる姿は馴染みのあるものだったのだ。そこへ人生最大のオチであるリアルガス爆発が舞い降りた。なんておいしいんだろう。全部持っていきやがった叔父さん…はっ ?! そんな場合か。そうこうしているうちに下の階からどやどやと大人が押し掛けてきて、叔父は救急車に乗せられ病院へ搬送されてしまった。ここまで読んだ貴方は、子供らしからぬ私の心持ちを不快に思われるかもしれない。だがしかし、それにはちゃんとした理由がある。叔父の爆発は猫沢家のガス爆発史上たしかに最大級のものではあったが(父自慢の全面ガラス窓も吹き飛び、風呂場および周辺は多大な被害をこうむった)それまでにも数年という短いサイクルで、すでに二度爆発を起こしていたため、ある意味爆発慣れしていただけだった。被害者は母と母に背負われた幼少期の弟。このときも病院送りと相成った。


さすがに叔父の爆発時には、それまで放置していた(するなよ…)爆発原因の究明が行われた。普段、風呂を沸かす係は祖父だったので、祖父の風呂沸かしの方法を詳しく問いただしてみたところ、彼の方法ではガスタンクの中に微量ながらガス漏れが生じて、それがある日溜まりに溜まったところでどっかん行くことが判明した。ちなみに恐ろしいことに、ほぼ365日風呂を沸かしてる祖父は今まで一度もガス爆発に遭ったことがない。彼が爆発原因を毎日作りながら、ある日ふと「私沸かすね♡」と名乗り出た家族の別の者が犠牲者となるのだ。その恐るべき災難回避運の強さ!奇跡的な確立の上に祖父のガス爆発未経験は成り立っていた。

「家の風呂というものは爆発するもの。」という概念が世間では通用しない間違ったものだと判ったのは、上京してこの話を大学の友達へ話したときだったと思う。「(風呂で清潔になるという)リスクなくして快感は得られないのが人生かと思っていたよ。」そう笑顔で話す私を、友達は遠い目をして「...これからはなるべく爆発しない人生を送ろうね。」との優しい言葉をくれた。


今朝方の緊急ガス停止、それにともなうセンサーのアラーム音に動悸が激しくなり、半パジャマのまま1Fの管理室へ駆け下りた私の行動の裏には、こうしたトラウマが少なからずあったのかもしれない。しかし、どんなに気をつけていても人生、爆発するときは爆発する。それはガスに限らず、芸術も寝起きの髪の毛も、才能もしかり。


エクスプロージョン・イン・マイ・ハート。さ、仕事という名の爆発現場に戻ります。







posted by 猫沢エミ at 15:54| パリ | 猫沢家の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月19日

続報・毛考。〜父がかつらを燃やした日


Quand la femme tient la barre de sa vie N°6 −猫沢エミライブ&トーク@TRAUMARIS 恵比寿 2012 年3月2日(金)只今、絶賛ご予約中♡


パパ写真petit.jpg




まず、こちらを読む前に、まだ
「毛考」http://necozawa.seesaa.net/article/228253902.htmlを未読の方は、ぜひこちらを先に読むことをお勧めします♡



夕べ、下の弟T2から一通のメールが届いた。内容は4月に執り行われる、山梨でのいとこの結婚式と、それに便乗した父の古稀(70歳)祝いについてのスケジュール確認だった。

なんと!父ももうすぐ70歳であるか。父・猫沢ヒデノブは昭和18年4月6日生まれの牡羊座O型。若い頃より、恵まれた運動神経を生かし、高校時代からはバイクを乗り回すなどして、大学時代よりプロのレーシングチームに所属。名優・田宮次郎さんの映画で、スタントマンなどを勤めた。などと書くと、さも高人格の素晴らしい人かと思えば、まったくもってわがまま奔放。酒を呑んでは暴れ、子供心にも、「大人というものは、なんと不完全でコントロールの利かぬ獣だろうか。」と思ったものだった。そんな父は、豊富な体毛を誇る男性ホルモンの塊のような人で、20代前半より、髪の毛との離別を繰り返し、30代に入るころには、見事なズルッパゲと化した。当時、没落前だった猫沢家は、一応地元の名家として金を持っていたので、父はハゲ界のニューカマーであるアデランスを思う様所有し、人生を二人三脚で歩んできた。(この詳細は「毛考。」を参照されたし。)


そうか…暴れ馬も歳を取るか。これは祝ってやらねばと、弟のメールを読み進んでいたところ、巻末に衝撃の事実が刻まれていた。

「父、ついに脱ヅラ!しかも、白河のだるま市のどんど焼きで燃す。」

…!!!


私の愛する故郷、福島県白河市では、2月の中旬に名産のだるま市が開かれ、そこで同時にどんど焼きを行い、古いだるまやお札などを供養するならわしとなっている。そのどんど焼きに、父が飼っていた古参のアデランスを、すべて焼いたというのだ。


「エミの結婚式まで、お父さん、かつらがんばるから。バージンロード、ズルッパゲで歩けないから。」と、生前父はよく言っていた。あ、まだ生きてた。いや、ある意味父は死んだ。ヅラののったヒデノブは、昨日で一度死に、今日からは正々堂々己の地肌と共に生まれ変わったのだ。そんな父の願いむなしく、40を越えたひとり娘は、結婚どころか男を蹴散らし地球の西と東を行ったり来たりするばかり。この先まかり間違って、奇特な人が現れ、ウエディングドレスなどを着るようなことがあったとしても、すでにオバージンロードしか歩けない。

父は、諦めたに違いない。自分と同じく奔放な血を受け継ぎ、ひとところにじっとしていられない娘に「アデュー」とつぶやいたのだろう。ついでにかつらにもアデューした。さようなら、俺の人生の大半を支えてくれた、ゴムと毛のシルクハットよ。さようなら、俺の男を支え、かつ雨風から守ってくれた同朋よ。さようなら、俺の青春。光と影の乱反射よ…


弟のメールは、こう締めくくられていた。

「父さんにとってのズラとは、神棚に上げている物と同じ価値があり、神に髪の毛をかけて、どんど焼きに投げ込んだのかもしれない。燃えるズラを想像したら、爆笑して動けなかった。せめて、写真に残して欲しかった。神飾りや札やお守りやだるまの中で燃えるズラ…。もしかしたら、だるまの頭の上にのっかって燃えていたかもしれないね。

古稀祝いに、ドレッドのズラをプレゼントしようと思う。」



4月の古稀の祝いでは、父に新たな同朋、ドレッドヅラが父の濃い顔に乗せられる。その時、彼はジャマイカ人ヒデノブとして新たな人生の幕を切る。私はボブ・マーレイの名曲をiPhoneで流そう。ラスタファーラー・ハイル・セラシアイ!ラスタファーザー・ハイル・ハゲシアイ!

どんど焼きによって天に召されたヅラたちに、深い哀悼の念を贈る。


Photo:バイクレーサー時代の父・ヒデノブ。この頃はかろうじて地毛でした。









posted by 猫沢エミ at 10:44| パリ ☁| 猫沢家の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月24日

カッコーの巣の上で。



【急告♡】2011年12月4日(日)『Namy Soul』でライブ! BATICA@恵比寿 2011 年12月4日(日)




先日、母がいつものようにけたたましく電話をかけてきて、親類の某人の精神状態が再び悪化している…というようなことを言った。「再び」というのにはわけがある。かの人は、ちょうど一年前にも自殺未遂をし、心肺停止の後にからくも命を繋いだからだ。重い鬱病と若いころから戦っているかの人は、今までにも何度となく未遂事件を起こしていた。そこから、我が家系の精神不安定者の話になった。母が、ごく明るい感じでこう言った。「そういえば、あんたも子供の頃に強迫観念神経症で大変だったわよねえ。石鹸がなくなるまで手を洗ったり、朝までドアを何度も開け閉めしてみたり。」

そうだ。私にもそんな時期があったっけ。我が家系、ことに父方の系譜には、「イカレ」の血が色濃く流れている。パニック症候群、躁鬱病etc。ずいぶん前に亡くなった祖父は、誇大妄想狂で、もともと繊細だった彼の神経は、戦争出兵によって完全に壊れた。ジャングルの密林でゲリラ戦を体験してからというもの、夏になり、気温が高くなるとそのスイッチが入るようになってしまった。真っ赤なシャツを着て、部屋中にハイビスカスなどの赤い花の鉢植えを絨毯のように敷き詰め、朝から軍歌を大音量でかけて、鐘を打ちならし、読経を繰り返す。それがしばらく続き、ある日小学校から家に戻ると、祖父はいなくなっている。「おじいちゃんどうしたの?」と母にきけば「おじいちゃんは、アメリカの別荘へヴァカンスに行ったのよ。」と答えた。小学校低学年までは、本当にそうなのだと信じていたが、ある日、おじいちゃんは精神病院に入れられているのだということが、それとなく理解できてしまった。しかし、それを「イカレ」だとはひとつも思わなかった。「イカレ」自体の理解が出来ていなかったというのもあるが、祖父以外にも、しょっちゅう自殺未遂を繰り返すもの、酒乱で暴れるもの、極度の神経症で自分を追いつめるものなどを、日常の風景として見ていたからかもしれない。おそらく私が強迫観念神経症に陥ったのは、こうした、子供の経験値ではすべてを理解するには難しい人々に囲まれた状況のプレッシャーと、もともと持っている資質があいまったからなのだと思う。


電話口の母が言う。「だけど、あんたがもしも強迫観念神経症になるような、自分になにもかもを突き詰める性格じゃなかったら、ミュージシャンになってはいなかったかもしれないわよね。」そうなのだ。もしも、私がイカレていなかったら、メトロノーム60〜200の間をひたすら延々基礎打ちで8時間毎日練習するなんてことができただろうか。そして、10代でスティーヴ・ライヒにのめり込んだり、クセナキスのペルセファサを24時間聴きっぱなしなんてことが、出来ただろうか。病と正常の提議など、本当は誰にもわからない。ただひとつわかるのは、病から派生する様々な副作用には、常人では到底出来ない、人間の爆発的な力を生むことがある、ということだ。叔父が物理学者になれたのも、強迫観念神経症の力があったし、祖父が、イカレてはいるものの、書道やその他、様々なアーティストだったのも誇大妄想狂の力が働いていただろう。だから、私をとりまく不完全で柔らかく、壊れやすい大人たちを見て「薄暗いイメージ」は、ひとつもなかった。(まあ、ピーター・グリナウェイの映画世界が現実に広がる日常には、原風景としての陰惨さは植え付けられたと思うけど。笑)彼らは底抜けに面白かった。単純に、笑えるという点からも、アーティスティックな興味深さからも。

ただ、強い危機感も同時に覚えた。「人間はとてもやわらかくて不完全なものだ。たとえるならそれは、型から出た後のプッチンプリンだ。風が吹けば己の形を保っていられない。」だから、私は自分のやわらかさ、危うさを9歳で自覚し、自分の危ういがゆえに素晴らしい感性を守るため、強固なプッチンプリンの型を作らねばならないと思い立った。それが、打楽器の禅の修行にも似た練習だったし、音楽の道へ進むことそのものだった。おそらく、下の弟2人も表現は違えども同じような危機感を持ったであろうから、幸いなことに、私たち3人姉弟は、この一族の中で非常に稀な「やわらかいまま一応真人間」として大人になることが出来た。その過程には、母の力によるところが大きい。これだけ「イカレ」のいる一族に嫁ぎ、彼女も彼女なりに子供の「プッチンプリンの型形成」に意欲を持っただろうし、考えた部分も多かったと思う。「イカレ」を受け入れ、その良い部分を伸ばし育てるということにも。そうした彼女の姿勢を象徴する印象的な事件があった。

上の弟が高校生のとき、とても仲のいい彼の親友が、突然ある日、精神病院に入れられてしまった。彼の家はうちとは正反対の、一族が皆学校の先生で、規律正しく、誰ひとりイカレていない優秀な家系だった。彼も子供の頃から親の期待を一身に背負って勉学に励んでいたのだが、おそらく相当のストレスを抱えていたのだろう。ある日、親に向ってたった一度きり、手を上げた。それは、彼にとって生まれてはじめての反抗だった。驚いたご両親は、こともあろうか警察を呼び、彼はそのまま精神病院に入れられてしまった。数日後、弟と母が彼の病室に見舞いに行くと、ベッドの上には薬で完全に自我を失ったロボトミーが座っていた。家に着くなり母が言った。「お母さん、あの子と引き取ろうと思うんだけど、どうかな?」私はなんの躊躇もなく賛成した。実は、この母は育ての母で生みの母ではないということを、とうの前から知っていた私には、血の繋がりがさほど重要でないこともわかっていたし、弟がひとり増えたって何の問題もないと思ったからだ。

母は言った。「まったく!何が正常で何がおかしいかってわかったもんじゃないわね。あの子は、せっかくまっとうだったのに、正常ぶった人たちに壊されてしまった。私から見れば、あの子をあんな風にした大人のほうがよっぽどイカレてるわ!」しかし、母の願いもむなしく、社会的に何の問題もない両親が揃っている家の子を、こちらの意向だけで養子にすることはできず、彼はずいぶん長いこと病院にそのまま入れられることになってしまった。


ちょっとした凹みや停滞は、身体の病気に置き換えれば「風邪」のようなものかもしれない。それが慢性化すれば、病気がち、ということになるだろうが、問題は、その症状に名前をつける第三者の理解と認識によるところが大きい。

電話口の母が言った。「あんたは本当にイカレに囲まれて育ってよかったわね。あんたの想像力の源も、理解の深さも、みんなあの人たちにもらった宝物なのよ。」ありがとう、お母さん。病院も薬もノウハウも、余計なものは何一つ持たない、あなたは最高の精神科医です。










posted by 猫沢エミ at 12:39| パリ 🌁| 猫沢家の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月30日

毛考


Recording Live ! SARAVAH Tokyo −猫沢エミ・レコーディングライブ@サラヴァ東京2011 年10月24日(月)25日(火)2days只今、絶賛ご予約中♡




疲れた。さすがに。昨日は、編集長を務めているフランコ・ジャポネフリーペーパーBonzour Japon N°29の校了日で、深夜まで作業が続いた。その前の4日間は、日中に打ち合わせやら先々の仕事の諸々に追われ、夕方から明け方まで原稿を書いたり、集まって来た連載陣の原稿チェックで半徹状態が続いた。首から上になぞの湿疹がすきまなく表れ、胃を壊し、栄養も睡眠もぎりぎりで自分でもよく持ったなと思う。いや、持たなかったから、身体がストライキを起こして湿疹ができたのだと思うけど。

明けて本日。最低限の仕事だけにして、録りためていたドキュメンタリー番組を見たり、ひさしぶりにのんびりご飯を食べたりして、時々短い睡眠を取った。それでも蓄積された疲労はなかなか身体を離れてはくれない。思えば、ここ1年ずっとこんな感じだったものなー。身体だって嫌気がさして「実家に帰らせていただきます。」ってなるよ、そりゃ。ま、本当に実家に帰っちゃうのは死んじゃうってことなんだろうから、大事な嫁はちゃんと引き止めておかねばならぬね。ソファーにぐったりと横たわりながら、ふと腕のあたりを見た。本体はこんなにも弱っているのに、毛たちは「コンニチハ!僕ら、こんなに元気だよ♡」と手を振っている。なんだのだ?毛とは。毛ってなあに?素朴な疑問がわいてきた。

そもそも、毛とは不思議な存在である。毛を毛嫌って、お金をかけて脱毛する人もいれば、毛を心から買い求める人もいる。私を含む、猫沢家の人々は、元来毛の存在に翻弄された歴史を持つ。それはさかのぼること30年前。


ある日、父がアデランスであることを、知った。1980年代初頭の日本で、アデランスとは最先端のヅラだった。福島県の田舎街に、かつらはおろか、アデランスなどというお洒落ヅラをつけているのは、おそらく父ひとりではなかったか。彼にとって、アデランスは帽子のような存在で、つけていることを隠したりすることもなく、よく人前で脱着していた。

中学生のある日、親友Mが家に遊びにやってきた。父はお風呂に入っていたのだが、Mがリビングにいることを知らず、いつものように全裸で突然入って来てしまった。するとMの姿を捉えた父は目にもつかぬ早さで、頭につけていたアデランスをむしり取り、局部に当てがった後、さわやかに「Mちゃん、いらっしゃい。ゆっくりしてってね。」そう、言い残し、笑顔と共に寝室へ去って行った。私は心の中で「父、ナイスプレイ!」そう叫んだのと同時に、Mの方を振り返ると、目の悪いMは「エミちゃんのお父さんって、あそこがものすごい剛毛なんだねー。」とごく普通に意見を述べた。そうなんだよM。いや、ちがうちがう、そうじゃないー…と鈴木雅之がバックで歌うのを聴きながら、アデランスの使い勝手の良さを改めて見直した。

父は、弟たちと、アデランスの裏側についているかっぱのお皿みたいなゴム面を上にしての“アデランスフリスビー競技会”もたびたび催していた。飛距離が一番だった選手は、裏返してかっぱ状態のアデランスを、ずるっぱげの父からうやうやしく頭に乗せてもらえるのだった。古代ローマの月桂樹の冠のごとく。そんな風だったから、てっきり父にはハゲコンプレックスとかヅラコンプレックスがないものだとばかり思い込んでいた。あの夜までは…


私が上京し、東京の生活にも慣れたある日、母から一本の悲痛な電話がかかってきた。自分からかけてきたくせに、なかなか口を開かない母に問いただすと、昨晩の事の顛末はこんな風であった。いつものごとくたらふく酒を呑んで酩酊状態で帰宅した父が、家につくなり玄関先で「俺は…俺は…ほんとはアデランスなんか大っきらいなんだああ!」と叫んだかと思うと、頭にのせていた今日のアデランス、略して今日アデ(彼はスペアも含む、4〜6個のアデランスを飼育していた)をむしり取り、玄関の床に叩き付けた。おどろいた母が「どうしたの?!」と声をかけるのを突き飛ばし、だだだだと階段を上がった父は、飼っているすべてのアデランスを寝室から抱えて家の外に走り出た。当時の猫沢家は、小高い山の頂上にあり、家の前にはひろい空き地が広がっていた。そこにゴミを燃やすための土管があったのだけど、その中にアデランスたちを投げ入れ、ライターで火をつけようとしたのだ。それを見た母は裸足のまま血相を変え「やめてー!!ひとついくらすると思っているの!!」と、父に体当たりし、ジャンヌ・ダルクになりそうだったアデたちを土管の中から間一髪のところ救いだした。不意をつかれた父は「あっ…」と声をあげ、今度は父が母に体当たり。バラバラと地面にころがるかっぱ状のアデのひとつをつかみ、お互いが両端をつかんでひっぱりあいながら、あらぬ限りの罵詈雑言を浴びせ合ったのだと言う。その後、父の体力がつきるまで、空き地での攻防は続いた。アデランスを抱えて家に走り込もうとする母を父がタックル。再び奪って空き地を駆け回り、また母がタックル。いい大人が泥だらけになってアデランスラグビーを数時間も続けていたのだと、母は疲れた声で滔々と語った。

「おつかれハゲでした…」私が言ってあげられるのはその一言だけだった。「お父さん、ふだんあんなんでも、結構気にしてたのねー、ハゲ。」母はそう言って電話を切り、ひとり暮らしの部屋の中に、不思議な切なさが満るのを感じた。

頭のてっぺんには毛がないのに、身体には豊富に毛のはえた父。それは弟達も、私もしかり。そういえば、祖母も「14歳から剃ってるもんねー♡」と生前、よく自慢してたっ毛。ほぼ14年の天寿をまっとうし、昨年亡くなった愛猫ピキも、魂が抜けて数時間のうちにみるみると、つやあった毛から生気が消えてゆくのを見て、驚き哀しんだ。毛は、切っても痛くもかゆくもないが、もしかしたら、一番生命力を表しているバロメーターなのかもしれない。そう思えば、ぐったりと疲れ果てた今日の我が身に、毛だけが元気に踊っているのも、吉兆と思わねば、あの夜の父になんだか申し訳ない気持ちさえしてくるのだ。





posted by 猫沢エミ at 23:51| パリ | 猫沢家の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする