2013年12月18日

『素粒子』−ミシェル・ウエルベック読了記



Loopcafe•Collage presents- 2013大忘年会交響楽-2013年12月29日(日)
仙台Neo Brother Z

Emi Necozawa & Sphinxフルバンドライブ!スペシャルDJに小西康陽氏♡




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本を読むことが好きか嫌いかと言えば、大好きでもあり大嫌いでもある、というのが本心かもしれない。本屋に出かけると面白そうな本が膨大にあって、どう考えてもこれらを全部読むことはできなさそうだし、また仮に読んでしまったら人の作品を読むことだけに一生を費やして、アウトプットの時間は永遠に持てない絶望に見舞われるからだ。だから、私はこうすることにした。一生のうちにできるだけ多くの本を読めるよう務めるけれども、数ではなく1冊の本をどれだけ丁寧に深く読み込むかに重点を置く。

簡単に読めるものもあれば、時間がかかるものもある。時間がかかるものは、大抵描かれている世界観が私の知らないまったく新しいもので、その世界の構造をあらかた把握するのに手間取る。つまり、簡単には物語へ入って行けない。だが、そこでつまらないと読むのを辞めてしまうと、その後広がる素晴らしい世界に触れる事ができないどころか、作家と物語に対して間違った感想だけが残る危険性が高い。まず最初に言っておきたいのは、「素粒子」を一旦読み始めたら、どんなに時間がかかっても最後まで読む覚悟を持って頂きたい、ということ。でないと、この本は60〜70年代に渦巻いたフランスを中心としたヨーロッパ、ひいては世界のカウンターカルチャー、ヒッピームーブメントにおける一見自堕落なセックス事情を紐解いただけの話、そしてある鬱鬱とした2人の兄弟の精神病的な独白物語で終わってしまう可能性があるからだ。

「素粒子」の中には、差別的な発言や極端なモノサシで測られた表現も多い。だから、書いてあることをそのままにしか受け取れない人にもお勧めできない。世界にあるありとあらゆる現象、宗教、文化形成の礎となる人間のおぞましい欲望、矛盾について宇宙からまるごと地球を眺めるような俯瞰の姿勢が必要になる。それと同時に、自分自身が物質を構成する最小単位の“素粒子”となって、限りなくミクロの精神世界に降りてゆく冒険心も。


物語の骨格は、分子生物学者ミシェル・ジェルジンスキと、その異父兄である国語教師のブリュノの人生によって作られている。登場する物語の年代史も、ふたりの系譜をさかのぼる1800年代から未来の2200年までと幅広い。だが、中心は60年代を起点とするフランスを中心としたカウンターカルチャー、ヒッピームーブメントを経て、この作品が発表された90年代までが基軸となっているので、そこは掴みやすいかもしれない。分子生物学者のミシェルは、ノーベル賞を受けるに値する研究発表後、この世界から失踪する。

『形而上学的変異−すなわち大多数の人間に受け入れられている世界観の根本的、全般的な変化−は、人類史上まれにしか生じない。その例としてキリスト教の登場があげることができる。形而上学的変異はひとたび生じるや、さしたる抵抗も会わずに行き着くところまで行き着く。既存の政治・経済システムや審美的見解、社会的ヒエラルキーを容赦なく一掃してしまう。その流れはいかなる人間の力によっても―新たなる形而上学的変異の出現いがいには、いかなる力によっても―止めることができない。』−本文冒頭より引用

「素粒子」を読み始めた方は、プロローグに登場するこの部分を頭に留めておいて欲しい。おそらく読み終わったときに、「このことだったのか…!」とすべてが明瞭に理解できるはすだ。まさに、ミシェルの成し遂げる《第二の神の所業》とは、現存するこの世界を一新してしまう目覚ましい形而上学的変異に貫かれている。なんて書くと「猫沢さんの書評を読んでいるだけで頭が痛くなるから、さぞかし物語は難しくて読みづらいものだろう。」と思われるかもしれないが、私にもまったく知識不足なミシェルの研究領域である分子生物学の様々な専門用語や研究史の遍歴話以外は、恐ろしく落差のある俗でありきたりな、誰しも体験したことのある“人生の苦しみ”が、極一般の庶民感覚レベルで描かれているからご安心を。何が安心だ!暗そうな話だな。その通りである。どうして人生とは、かくも見事にうまくいかないようになっているのか?愛を求めるすべての人が、精神的高みへと達する前に、その具体的な手段であるセックスを行うための身体的な老いや病に屈服せざるを得ないのか?美しい者もそうでない者も、皆等しく存在の虚無感から開放されないのか?といった人生苦難の命題探しを、ミシェルは科学者の形而上学的変異をもってして理知的に、兄のブリュノはスワッピングやヒッピー文化のフリーセックス体験というあがきを通して描かれる。ことに思わず「このアホたれが!」と罵倒したくなるようなブリュノの様相には、失笑を通り越してある種の慈しみすら感じる。特に歳を重ねるごとに目に見える形で萎えてゆく性器を持つ男性諸君は、骨の随まで染入るような共感と、それでいてあまりに明快な悲哀の提示に反発を覚えるかもしれない。かといって女性はこの問題から免れるわけでもない。幾分「素粒子」の中では、女性が善き者として描かれている側面も見て取れるが、やはり私自身を含む女性も老いには勝てぬ、次世代の子供を愛の名の下によって生み出す生物としては、あまりに哀しい存在でしかない。そう、これは「愛」をすべての現象から切り離し、純然たるものとして残すために、宗教ですら救えなかった(ある意味、宗教の無力さも明確に描き出している物語とも言える。)人間を、どう救うか?という恐ろしく崇高な命題を伴った小説なのだ。


命題を描き切るために使われた、フランスの60年代から90年代までのうんざりするような社会・文化事情が非常にリアルに描かれているので、その“腐敗史”とも言える部分だけでも読む価値は高い。また、ブリュノが迷走するセックス文化事情は、さらにリアルに描かれるわけだが、これは作者ミシェル・ウエルベックが自堕落な時代を自ら通って来た体験記であることも、彼自身が告白している。ここで少しウエルベックのプロフィールにも触れておく。

『1958年2月26日、インド洋上に浮かぶフランスの海外県レユニオン島で生まれた。父は山岳ガイド、母は麻酔専門医だったが、両親は息子の養育権を放棄。ウエルベックが6歳のときに、父方の祖母に預けたきりにしてしまう。その後両親は離婚。母親は別の男性とのあいだに娘を作ったが、ウエルベックは4歳下のこの異父妹とこれまで一度も会ったことがないという。なおウエルベックというペンネームは、祖母の性からきている。パリのセーヌ・エ・マルヌ県で少年時代を送ったのち、同県モー高校の寄宿生となる。祖母が彼が二十歳のときに死去。80年に国立高等農業学校を卒業したウエルベックは、同年に最初の結婚をし、23歳で息子が誕生するがやがて離婚。職業も失ってしまう。その後精神のバランスを崩し、数度にわたり精神科入院を余儀なくされた。』−訳者・野崎歓氏によるあとがきより引用

この作家前のウエルベックの個人史が、登場するブリュノの設定に克明に反映されていることは、「素粒子」を読んで頂ければ一目瞭然だ。ウエルベックが卒業した国立高等農業学校は、農業技術指導者の養成を主眼とするエリート校であること、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家アラン・ロブ=クリエが同校の卒業生であるが、ウエルベックがむしろヌーヴォー・ロマン的な《エクリチュール/書体、作風》の戯れ、テクストの探求といった方向性を不毛で退屈だとしてまっこうから否定する姿勢をとっていることも、名訳を生んだ野崎歓氏のあとがきには書き添えられている。


かくしてウエルベックは、生物学の豊富な知識と性文化の放蕩体験によって「素粒子」を生み出した。2人の主人公は、ウエルベック自身の中に宿る2つの極端な姿であり、科学者の冷静な観察眼と、自堕落に呑み込まれる弱い人間の両方がそれぞれの命題として呼応し合い、数奇な作品へと生まれ変わった。

物語の最終盤、まるで海底の火山活動によって一晩のうちに島が出現するかのごとく、それまでの長い陰鬱が一気に晴れ、新しい形而上学的変異を見せる様は圧巻の一言。そして、救われない人類のひとりである自分もまた、世界中の海が凪いだ虚無の果てに現れる、穏やかで静かな風景に、じっと佇んでいる。












posted by 猫沢エミ at 13:44| パリ ☁| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月29日

『14歳』『ミュージシャンと猫』−佐々木美夏さんのこと



LA VIE AVEC UN CHAT et LA MUSIQUE- Kyoto,Wakayama,Tokyo
2013年7月12 日(金)京都、13日(土)和歌山、14日(東京)
Emi NECOZAWA & Sphinx Trio ライブ&トークイヴェント♡チケット絶賛ご予約中!


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先日のパリ渡航の前日ぎりぎりにAmazonから届いた本があった。それが、音楽ライター・佐々木美夏さん(以下:みかりん)の最新本『14歳』だった。
 
14歳、と聞いてみなさんは何を思い浮かべるだろう?今、流行の単語“中二病”も14歳。90年代に起きた神戸連続殺人事件の犯人も当時14歳。楳図かずおの集大成ともいえる漫画も『14歳−フォーティーン』だったりと、決して明るいとはいいがたいイメージが列挙し、大人と子供の境目に出現する異次元の年代。その14歳をタイトルに掲げた本の帯に書かれていた文言は、「12人のミュージシャンが初めて語った“あの”1年。〜悩めるすべての子供たち、親たちに捧げるメッセージ。」だった。

パリに到着して、日本人には深さの足りない、しかし長さは過剰なバスタブに浸かりながら、毎晩『14歳』を読んだ。気がつけばお湯が水に変わっていて、へっくしょい!と日本人ならではのくしゃみをしてぶるぶる震えながら、急いでベッドにもぐりこまねばならぬほど、みかりんの『14歳』は面白かったのだ。多分、通しで3回は読んだと思う。旧レーベルの先輩にあたるコレクターズ・古市コータローさんの、知られざる過酷な14歳時代から始まり、坂本美雨さんのN.Y黒春時代。そして同郷福島出身、サンボマスターの山口隆くんの章では、あまりの田舎ゆえ、育たざるを得ない妄想と野心がまざまざと蘇った。ミュージシャンは単体の生き物としても面白いのに、その曖昧模糊な各人の14歳をインタヴューし、本にするとは。さすがみかりん…やるな!と思ったのと同時に、じゃあ、ライターがみかりんじゃなくてもこの本は出来たのか?と言えば、それは根底から違うだろうとすぐに気がついた。
 
こんなことを言ってはなんだが、ミュージシャンはライターを基本、信用していないと思う。少なくともコロムビア時代の私はそうだった。たしかに、個性の強い面倒なキャラクターと真っ向勝負をせねばならぬ音楽ライターは、大変な仕事だと思う。けれど、上がって来る文章のほとんどが「そこまで逃げなくても。」とか「こんなんだったら、実際に話を聞かなくても書けたでしょうに。」というものだったから。(もちろん、メジャーアーティストにはレコード会社や事務所の検閲が入るから、中には苦しい思いをして文を練り上げた方々もいたとは思うけど。)だからこそ、たまに出逢う「こいつは出来る!」と思うライターさんには深いリスペクトを傾けた。ちなみに今までで「こいつは出来る!」と思ったライターさんは、作家になる前夜の嶽本野ばらさん、小田島久恵さん、そして『14歳』のみかりんだ。なんて書いてしまうと「また適当なこと言って。まだエミちゃんにインタヴューしてないでしょうが。」とみかりんに失笑されてしまいそうだが、それにはちゃんとした理由がある。

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そもそも、みかりんとの出逢いは、彼女の別著『ミュージシャンと猫2』で原稿を依頼されたことがきっかけだった。そのときも寄稿という形だったから、私は彼女のインタヴューを受けてはいないのだけど、献本された『ミュー猫2』には、猫を通した様々なミュージシャンの生のぬくもりとか手触りが、まるで自分も取材に同行したかのように鮮やかに綴られていた。猫と飼い主、どちらが獣なのかわかったものではないミュージシャンの面々に、ペンひとつで切り込んでゆくみかりんの姿が文章からありありと伝わって来て、「ああ、佐々木美夏というライターは、本気でミュージシャンを愛してくれているのだな。」と思ったのを覚えている。寂しがりやで複雑怪奇なミュージシャンは、いつもライターさんに愛されたがっているのに、ライターさんたちは、なかなか真正面に向き合ってくれないものなのだ。ある意味、毎日が肝試しみたいな職業のプロとして、みかりんの文章には、肝を冷やしてもかまわない覚悟が見てとれるし、そこにすがすがしさと癒しを感じる。たぶん、獣当事者であるミュージシャン以外の人が読んでも、それはちゃんと伝わるに違いない。

 話は『14歳』に戻る。まず、この本を読んで、おそらく皆が最初に思うことは「自分の14歳ってどうだったっけ?」ではないだろうか。私も真っ先に思いを馳せた。忘れていた異次元の年代へタイムスリップし、扉を開けてみれば、そこには今の人生を形作るための材料があらかた揃っていることに驚く。哀しみの越え方も、最初の指針も、なんらかの始まりが14歳であったのだ。そして、今みたいに経験から道具を引っ張り出す術を持っていない14歳の自分が痛ましく、愛おしく感じる。置き去りにしていた出発点を、やはり同じく痛ましかったり、愛おしい各ミュージシャンの14歳に触れることで、初めて葬ってやることができたと、イラつくほど浅いバスタブの中で、私はしみじみ思った。


年上&音楽業界の先輩でもあるみかりんに、なんだかめちゃくちゃ言いたい放題書いてしまってごめん。そして、ミュージシャンを愛してくれてありがとう。3冊の素晴らしい本を世に出してくれてありがとう。

『14歳』エムオン・エンタテインメント刊 ¥1,680

『ミュージシャンと猫』(P-Vine Books)スペースシャワーネットワーク刊 ¥1,680

『ミュージシャンと猫2』(P-Vine Books)スペースシャワーネットワーク刊 ¥1,680


posted by 猫沢エミ at 01:56| パリ ☁| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

空気を読む。



長らく、仕事とは関係のないプライベートな長文を書いていなかったものだから、長文でなにかを繰り出すことに、少々衰えを感じた先日。某友人とこんな話をしていて、はっとしたことがあった。

「文章を書ける人というのは、空気が読める人だよね。」ほう。これだけを聞いても、ピンとこないかもしれない。感じたことを書く、という行為とその場の空気を読む、というのは一見するとまるで関係がないように思える。ところが、これには密接な関係があるなあと、するめ烏賊なぞかじりながら、私は杯の酒をくいと呑んだ。

私がブログを立ち上げて、それこそ365日、日記を書き続けた時期が2001年から約8年間続いた。平均するとだいたい毎日2000〜3000字。ちょっとしたコラム並の文字量である。大切なのは、文字の多さではなく、それを毎日繰り返したというところ。初期のものを見ると、目も当てられぬほどひどい文章で、赤面する有様なのだけど「まあ、いいたいことはわかるよ。」といった程度のものだった。それが、年を重ねるごとに上達してゆく様がわかる。別に、文章力を上げたかったから始めたことではなくて、日々感じる様々な事柄を、忘れてしまう些細な色彩を形にして、吐き出し綴るのが楽しくて仕方なかったのだ。しかし、書いた文章を少し後になって読むととたんに凹む。自分の弱点が丸出しで、みっともなくて恥ずかしかった。文章を書く、そして推敲する、という行為は、まさに自分自身との対峙に他ならなかった。っていう話をだね、その夜の友人にすると「それだな。その長年の自己分析が、その場の空気を読むっていう瞬発力の源だ。」と言った。おなじくするめ烏賊をかじりながら。

なんでもいいや。合コンでも呑み会でも、どうも自分をうまく出し入れできない人がいたとする。そうゆう人はもしかしたら、文章を書くのが苦手な人ではないだろうか?巧い下手には、多少の資質もあろうから、問題にはしない。ただ、何かを感じたときの言葉の繰り出しが遅くはないか。そして、そうゆう人は、あまり本を読まない人ではなかろうか。いや、たまに本をものすごく読んでいるわりには、まるで空気の読めない人にも遭遇したりする。そうゆう人は、読む、という行為が知識を得る、という機械的な発想で留まってしまい、やわらかい感情まで落とし込んで身にすることはしていないのかもしれない。知識は、最終的には応用し、新しいもの、自分だけのオリジナルを作り出す種でしかない。箱だけをコレクションしても、そこへ入れる何かは、自分だけのオリジナルでなくてはいけないと思うのだ。テクニックとは、そうした説明のつかないものを手に入れる分だけあればいい。小手先で巧くなることが最優先になってしまうと、からっぽの箱で埋め尽くされた身動きのとれない部屋に住む、本末転倒な住人になってしまう。それがどんなに広い豪邸だとしても。

百本ノックブログ時期がある程度過ぎた頃、私はパリに移り住んで、今度は日本語そものに枯渇した時期を迎えた。「メルシー僕」だの「蛸足十本、烏賊足百本」(←知ってる?笑)だのにうんざりして、フランス語学校に通うかたわら、池波正太郎の世界にのめり込んだ。日本からパリに戻るときのスーツケース半分が、池波先生の単行本で埋め尽くされた。簡素で丁寧な、誰にでもわかる美しい日本語で綴られた闇の世界、悪の世界。それを突き抜けた人間的な善の世界が、1930年代の家具に囲まれた古めかしいパリのアパルトマンで、夜な夜な繰り広げられた。そうして今度は読書100本ノックを経て、また自分なりの文章表現に変化が起きた。たぶん、これからもその繰り返し。感じ、書き、枯渇し、読み、そしてまた書く。自分が表現したいもののゲージが広がった分だけ、必要に応じてテクニックを高めながら。

ぴんぽんぱんぽん。ちなみに、最近のめりこんでる感ありのツイッター(笑)は、長文ブログよりも実は、はるかに高度な言葉道場であることをお知らせします。ツイッターは速いタイムラインの中で、いかに空気を素早く読み、繰り出すかが重要。ある意味、毎日が言葉上での合コン参加といったところか。まだまだ、自分の中にある他の弱点要素ゆえに、野暮なことをつぶやいたりもして、修行が足らんのですが。

しかし、お母さんや先生はよく言ったものだなあ。「日記を毎日書きなさい。」
や。最近怠っていたもので、私も初心にかえってブログります。(ほんと!)










posted by 猫沢エミ at 14:33| パリ | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月20日

百年の孤独ーG・ガルシア=マルケス

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さすがに今日は、昨日までの3日間の疲れを引きずって、ずいぶん長いこと眠っていた。荒れた部屋を整えて、急いでしなければいけない仕事に服のすそをひっぱられながらも、ここ数ヶ月読んでいた1冊の本を、終いまでついに読んだ。それは、時間の感覚も生き物の混沌と豊潤も、恐ろしく壮大でありながら細密な、残酷なまでに`生´を営む者すべてが背負う過酷な現実を、南国の甘い腐る寸前のフルーツの匂いで包んだ物語。G・ガルシア=マルケスの`百年の孤独´だ。

この本は、先日のパリ滞在の少し前から読み始めた。パリでのひとりの夜更けには、かならずこの本が傍らにあって、ラテンの奔放な空気の中に、さらなる色とりどりの絶望と喜びの映像を添えてくれた。ハードカバーの、持ち歩くにはかなり重たい本だったが、数ヶ月、とにかくいつも持ち歩いていたので、猫沢バンドのキーボーディスト坂くんが、パリにやってきたときに、百年の孤独を読んでいることがばれた。坂くんはこう言った。「身近な人で、ガルシア=マルケス読んでいる人、初めてみましたよ。実は僕もこの本に一度トライしたんですけど、途中からちょっと抱えきれなくなっちゃって、放置したままになってます。」それを聞いて、もっともだ、と素直に思った。南米の、むせ返るような熱気と、虫やバクテリアがとめどもなく沸き上がるような生の爆力に満ちたマルケスの話は、禅や静に司られた日本人とはまさに対局の感性であり、胸焼けして当然だと思ったからだ。

舞台は、南米の(おそらくガルシアの生地、コロンビア)とある低地の村・マコンド。その村の開拓者一族であるブエンディア家と、マコンドの栄枯盛衰100年の物語。この一家は、ウルスラ・イグアランという小柄で働き者の勤勉な母と、錬金術とこの世の成り立ちの解明に没頭する父、ホセ・アルカディオ・ブエンディアというふたりの祖と、その後生まれ出る多数の息子たち、アルカディオとアウレリャノ(やたらめったら、アウレリャノという同じ名前の息子たちが多いもので、何度も本の冒頭にあるブエンディア家の家系図を確かめる羽目になる)、そして神懸かり的なまでに強烈な個性をもった娘たちによって築かれ、そして朽ちてゆく。ウルスラとホセ・アルカディオが生まれた村を捨て、新天地マコンドに道を求めた理由は、狭い村の中で血が濃くなりすぎて、豚のしっぽを持ったいわゆる奇形の子供が生まれることを忌み嫌ったことからだった。しかし、物語の中には、己の血の匂いに惹かれるような近親相姦の愛や、または遠方の見知らぬ土地からやってきた、新鮮な遠い血の輝きに契りを結ぶ姿に代表される、人間が持つ、対になったすべての世界が、ことごとく、壮大なレンジとダイナミズムをもって描き尽くされる。あるときは妻と妾が、秩序と保守性に対しての生の喜びと繁栄の象徴として。あるときは平和と戦争が、怠惰とつまらなさに対しての革新と生を勝ち取る勇気・・・といった具合に、どちらもあって世界が成り立っていること、そしてそのどちらもが人間の性であることを、ファンタジーと見紛うばかりの力ある語りと上質なほらで紡いでゆく。そう、これは壮大なほら話であり、現実からかけ離れれば離れるほど、不思議と真実味が深く際立つ、マルケスの傑出した脳内の幻の記憶でもある。俗なブエンディア家に無心の存在として生まれたレメディオスは、ある日、天使のように空に召され、ブエンディア家を100年もの間見守り続け、2人の息子を生んだ娼婦ビラル・テルネラは、140歳以上(!)の高齢で死に至る、など物語にときおり吹く嘘の風すらも、人生における、信憑性の怪しさと神すらも予想できない無限の可能性を夢想させる。男と女、真実と嘘、光と闇、秩序と奔放、愛と憎しみ、自由と孤独、家庭と下界、国と個人、知識と資質、努力と怠惰、錬金術と科学、生きる者と霊魂・・・と、この物語を紡ぐ2色の糸をあれこれ書き連ねてみると、この世のほとんどのことが、面白おかしく、それでいて痛烈な痛みを持って描かれていることに、今さらながら愕然とする。

私がマコンドの100年物語の中にいた頃、それは永遠に続く時間のように思えたが、こうして読み終わってみると、それは本当にあった時間なのか、なかったのかさえ疑わしい。そのくせ、子供時代に祖父から聞いた、華麗なるほら話のように禍々しい光を放っている。マコンドとブエンディア家の人々は、一生忘れ得ぬ、不思議な力をもって私の海馬の奥に杭を打ちこんだ。その杭は、日々の雨風にさらされ少しずつ朽ちるたび、甘い南国のフルーツの匂いで、人間を好む様々な快楽の虫を呼び寄せ、痺れさせ、跡形もなく腐らせてゆくに違いない。

`百年の孤独´
G・ガルシア=マルケス
鼓 直 訳
新潮社 ISBN978-4-10-509011-1


posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする