2015年03月11日

再生。



あの日から4年経った朝、頭に浮かんだのは『再生』という言葉だった。
再び生きる、ということ。


ここしばらく、仕事の出来る器量良しの女友達に会う機会が多かった。普段はまったく痛んでいるとか、疲れていることを見せない彼女たちは、それぞれ職種もキャラクターも様々だけれども、過酷な状況にさらされて一度や二度は心身症をわずらった経験を持っていた。

かく言う私も、過去に何度か心が死んでしまいそうになった時期があった。その中で、もっともキツかったのが、前愛猫ピキを亡くした2010年から2011年の震災のあたりだったと振り返る。(この詳しい顛末は、著書『猫と生きる。』へ克明に書いた。)ピキ逝去の数年前に子宮頸ガンと筋腫のダブルパンチで2度の手術を経て、体力、ホルモンバランス、気力の三点セットが失われ、快活な過去の自分などもう二度と戻ってはこないと思い込んでいたのだが、ある日どん底まで堕ち自分の海底に触れた瞬間、浮上が始まった。と書けばちょっとポエティックで聞こえは良いが、ただ単に暗い顔した自分に心底うんざりし、うんざりするのさえ飽きてしまった、という方が正しいかもしれない。

自身の再生に選んだ仕事は、近所の弁当屋で週5日働きながらもともと生業としていた本業(作曲などの音楽関係の仕事、文筆業etc)を復活させるというものだった。当時、ごく親しい友達にしか話さなかった弁当屋のバイト。友達は心配し、人によっては「なぜ自分のスキルを活かさないの?弁当屋の仕事を卑下するわけではないけれど、あなたなら他にいくらでもできることがあるんじゃないの?」と言ってくれた。しかし、そのときの私には弁当屋のバイトがどうしても、どうしても必要だった。

人間は生まれてからずっと生きていると勘違いしがちだが、誰しも人生の中でかならず何度か死ぬ。身体がなくなるわけではないのだけど、本来の気力が堪え、従来いた場所から移動を余儀なくされ、発想の大転換をしなければ本当に二度と自分に立ち戻ることができなくなるような、精神の危機的死期だ。これまでの破天荒な人生の中で、私は何度かそれを経験していて『今回の危機的死期は、デカイぞ。』と感じていた。だから私は逃げた。今いる場所から、自分からできるだけ遠くへ逃げることだけが、自分を取り戻す唯一の方法だとやはりこれまでの経験で知っていたから。個性や感性など、本業ならば絶対条件になる道具はひとつも使わず、毎日同じ決められたことを淡々と遂行する体力勝負の仕事を求めた。頭をからっぽにして、マニュアル通りにお弁当を作る。何升もの米を研ぎ、何十個もの親子丼を作り、キャベツを刻み、油まみれの排水溝を掃除する。前の晩、原稿書きで徹夜になろうが、朝になれば決まった時間に厨房へ立ち、笑顔でお客さんを出迎える。クリエイションの分野にはいないタイプの同僚たち(とはいえ、この店は業務が過酷だったからか私以外はタフな中国人しかいなかった)と憤慨したり理解したりしながら上手に付き合ってゆくことで、自分の知らない社会に生きる人々の素晴らしさを学んでゆく。私の精神の底の方にへばりついている、自分をつまらなくするどうでもいいプライドはブラシで洗い落とされる油汚れのようにどんどん消えていった。

将来の展望などなにひとつなかった。考える余裕などないほど毎日疲れてへとへとだった。代わりに、弁当屋を始める直前まで苛まされていた不安や恐怖は、影も形もなくなっていた。中国人の同僚に「あなた、弁当屋の才能あるし経営者の素質もある。私たちを引き抜いて新しい弁当屋作るね!」と言われたときは「えー?!」と心底驚いたが、そのときの私は、本気で弁当屋になる勢いで仕事をやっていたのだと思う。それが私の逃げ方だった。できるだけ遠くへ、遠くへ...。


2011年3月11日午後2時46分、弁当屋バイトを終えて店から自転車に乗って自宅へ向う途中、大きな地震に襲われた。(この日の詳しい様子は、こちらをお読み頂ければ。http://necozawa.seesaa.net/article/190817839.html)浜町公園に一度は避難したものの、自転車をひっぱりながら余震で横揺れする新大橋を走って渡り、めちゃくちゃになった我が家でヘルメットを被ったまま情報を集めた。つけたTVからは、地元福島県白河市で生き埋め犠牲者が出た崩落事故の様子が飛び込んできた。夜には、美しい気仙沼が地獄のように燃え盛る映像が飛び込んできて、再生しかけていた精神は一瞬で木っ端みじんに打ち砕かれた。この地震で人を助けるために犠牲になった方、若くして命を落とした子供たち、そして愛する人を亡くし、今も苦しみのなかにいる方がいる。そんな方々の苦しみたるや想像を絶するものだし、追悼の祈りはずっと続いてゆく。けれど地震直後、個人の小さな危機や日々の悩みを言葉にすることは陳腐だと、暗黙の慎みが生まれてしまったようにも記憶している。でも、苦しみは個人個人のもので比べることなどできない。大きなものも小さなものも、その人が苦しいと思えば、それは立派な苦しみなのだと私は思うし、どんなときも個人の苦しみは謹んではいけないと私は考える。たまたま自分の人生において危機的死期だった震災前後、奇しくも日本全体が危機的死期へ突入した。次の日から再び個人的な再生と、日本の大きな単位での再生が始まった。


私はその後も逃げて逃げて、ある日ふと前を向いたら、そこに立っている自分の背中を捉えた。ぼんやりと佇む1年半前の自分。そいつの頭上をひょいと乗り越えて、うつろな自分を回収し、ひとつになったところで弁当屋のバイトを辞めたのだった。幸せなことに地球は丸い。逃げれば逃げるほど、遠くへゆけばゆくほど、その方向が360度どこへ向っていても一番遠い道を選べばおのずと自分の背中に出逢うように出来ている。

個人、そしてもっと大きな単位での苦しみからの再生に、深い祈りを捧げる。




posted by 猫沢エミ at 12:53| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月22日

色をつくる。


チャリティーライブ−北を想う、北を謳う会 @下北沢SEED SHIP  2011年4月23 日(土)心を込めて歌います♡


新企画♡猫沢エミのフランス語教室-N°1 @渋谷LIAISON 2011年4月24 日(日)チケット、残り2席!超特急でご予約を♡




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只今、深夜。今宵はよく地面が蠢く。春だから致し方ないのか?などと、少し余裕を持って事実を捉えてみる。


実は何を書こうか、まったく考えなしにキーをぱかぱかやっている。TVをつければ、被災者の方々の想像を絶する苦しみと、保身ばかりを考える犯罪者レベルの能無し高学歴高給取りたちに心底腹が立ち、泣くのをこらえるのは無理というもの。街へでれば、一見街の活気は取り戻ったかのようだけど、やっぱりあの日、あの瞬間から何か色が変わってしまったと感じる。決定的な何かが。それは、取りも直さず自分の心象風景からくるところが大きいのだろうけど、変わってしまった色からは、以前気づかなかった大事なことをすでにたくさん拾い上げているかすかな喜びも見出せる。

私は地震後、自分の中のリミッターを完全に壊して仕事をしている感があるのだけど、それは、震災前は自分のためだったすべての行いが、確実にもっと大きな、民族とか国(政府のことじゃないよ)というレベルの意識下でがんばりを利かせているからなのだと思う。そりゃ、素晴らしい孫さんみたいな義援金は送れない。たくさんのプロジェクトが潰れ、自分の生活もままならない、いちミュージシャンではあるけれど、私は私の持ち場でやれること、やらねばならぬことがあるのだ。皆も同じだ。よく、ツイッターなんかでも、自分の非力さに凹んでいる人を見かけるけれど、その気持ちも十分理解できる上で、今、人ひとりが生きているだけで、どれほど大きな力なのかということを、自負して欲しいなと温かいまなざしで思う。

ところで私は意外と出不精。(だと自分では思っています!笑)ついつい、フットワークも重くなりがちなのだけど、もっともっと物事を軽んじるのではなく、軽やかに考えて、もっともっと直感で動けるようになりたいと思う。たとえば、今日あそこでいい映画がやっているのなら、即座に出かけて見てしまおう、とかそんな日常の些細なことからね。深刻になってはいけない。すべてをもっとシンプルに、軽やかに考える。深刻に考えねばならないことは、これからも山のように出てくるのだから。深刻は、その時にとっておけばいい。そして、地震後、変わってしまった色を残念がりながらも、行動からしか生まれないビビットな色と掛け合わせて新しい色をつくりたい。

年齢が上がって来た上に放射能問題山積で子供は生めるのか?その前に、恋はどうなんだ?お金は?仕事は?老後は?と、震災でよりいっそう深まる悩みもつきないけれど、奇跡的なことに生きている。生きていたら、それだけで可能性は無限大だ。


さて、そろそろ夢を見ようか。ベッドの中で、思い通りの夢が見れたら、きっと目が覚めても、その夢はいつか叶う。生きているのだから。


Photo:今年はお花見をやらなかった。自粛とかじゃなくて、気分が乗らなくて。
   それでも、毎年健気に花をつける桜は、数少ない震災前の色を保っていて
   幸せな気分にさせられる。






posted by 猫沢エミ at 02:39| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月14日

日はまた登る〜41回目の誕生日によせて。



いよいよ明日!当日チケット出ます。ひとりでも多くの方に来て欲しいです。私を通して福島を感じてもらえたら。
Quand la femme tient la barre de sa vie N°4−猫沢エミライブ&トーク@TRAUMARIS
2011年4月16 日(土)
身の丈に合った、東日本大震災の義援金も募ります!

*メールにて予約された方の中に、うまくメールが届かないという原因不明のトラブルがありました。予約返信メールが届いていけないけれど予約した、という方は、どうぞ直接会場へお越しください!


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誕生日の前日深夜から、明けて14日は朝まで仕事をしていた。

それは、いつもとかわらない寝不足と余裕のない普通の日だったのだけど、仕事部屋が明るくなってきたあたりで、朝の空気を吸いにマンションの廊下へ出てみたのだ。すると、東の空に見事なグラデーションをまとった太陽がちょうど登り始めたところだった。なるほど、太陽はああやって毎朝登るのだな。しかも、こうしてじっと見ていると、太陽が地球を巡るスピードが目に見えてわかるものなんだなあ。瞬く間にぐいぐい登ってゆく太陽。あのスピードこそが、人生のスピードで、1秒という時間の正確な長さなのだとあらためて思う。


40年前に生まれ、生きて、太陽がこうして登り、たった今、私は41歳になった。普通のことではなくて、奇跡のように感じる。死んでしまうきっかけなんていくらでもあったはずだ。だが、それをどうにかかいくぐって今日まで生きてきた。いろんな人に生かされながら。

生まれ故郷の福島を想った。私の子供時代から青春時代にかけて、福島の白河には、なんにもなかった。マクドナルドもディスコも、東京の若者が普通に遊ぶような場所はひとつもなかった。米袋をそりのかわりにして、山を滑り降りたり、野いちごを摘んだり、人様の土地のたけのこを勝手に掘って怒られたりした小学生時代。あんまりにも遊ぶネタがないものだから、学校帰り、白河の目抜き通りと言われていた商店街の片隅に友達と立って、やってくる車に役柄をつけて、ナレーションして遊ぶ、というかなりプリミティヴな感覚遊びを開拓していた高校生時代。そうした中で、私が夢中になったのはクラシックや現代音楽だった。バイオリンや様々な打楽器の調べは、濁りのない山の空気にこだまし、余計なものがなにもない白河で、私のイマジネーションと感性は、さえぎられることなく、どんどんどんどん広がって行った。なんて贅沢で豊かだったのだろうと思う。おいしい水ときれいな空気と、豊かな自然の中で、私は自分の脳みそひとつあれば、どこにでも行けて、なににでもなれた。

先日、白河の母と電話した際「これから子供を生むかもしれないあんたが、こんな放射能だらけのところへ、来ては行けない。」そう、母が言った。電話を切って私はひとしきり泣いた。私を育んだあの美しい街が、それを内包する福島が、言葉では言い表せない哀しい場所になってしまったことを。ものすごくシンプルに、もったいないと思った。もったいないよ。もったいなくて泣けてくるよ。ゼロどころか、マイナス1000にも10000にもなってしまった故郷。そこから新たに力の限り浮上するであろう、あのたおやかな福島の人々。そして、津波で流れてしまった同じく愛する北の人々。

ところで、福島県人の友達をお持ちの人はもう大分気がついているだろうけれど、彼らのキャラクターは、実に愛すべきものだ。ピンポイントでは、目を見張るような情熱を見せるのに、普段はのほほんと鷹揚で、ものごとをするりと冷静に直視する。やってきた苦難にも「しょうがあんめえ。」と、愛らしい方言のリズムで、すぐさま歩み出そうとする。そうゆう良い気質は、私の中にも確実に存在する。そう、私はまぎれもなく福島の子供なのだ。今、疎開先で放射能差別を受けている、子供たちと同じく。マイナス1000だろうが、10000だろうが、彼らは現実から逃げることなく、今この瞬間にも浮上を始めているだろう。私が生きている間に、あの3月11日以前の姿に戻れるかどうかもわからない。それでも、彼らは浮上を続けるだろう。おそらく、出発点がゼロなのか、マイナスなのかは大事なことではない。大事なのは、浮上する力と、その力によって生み出される人生の躍動そのものだ。それは、この世で一番クリーンなエネルギーとなって、その土地に住む、人間そのものを生かしてゆくだろう。

あら。いろんなことを考えてる間に、太陽はずいぶんと登ってしまったなあ…。あのスピードで、あの力強さで、哀しみから浮上するんだ。福島、という大きさでの哀しみも、地震とは関係なく起きる日常の一個人の哀しみも、今こうしている間にも、それは誰しもの上へ平等に訪れているはずだ。ここ1ヶ月で失恋した人もいるだろう。失業した人もいるだろう。病気になってしまったり、お金が底をついて悩んでいる人もいるだろう。その、哀しみもおざなりにしてはいけない。人生に巻き起こる、すべての哀しみは、次に訪れる大きな喜びのための大事な大事な哀しみなのだから。けれど、かならず日は登る。それぞれのポイントから浮上しようとする人たちに等しく、あの公平なスピードで、美しいグラデーションをまといながら。


大丈夫。




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PS・Photo: 母からの誕生日プレゼント?(笑)ありがとう。
     今まで人生の中でもらったどんなプレゼントより嬉しくて泣いたよ、お母さん。





posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月28日

美しき台湾菓子、台湾人の心。−東日本大震災5日目より、それから


Quand la femme tient la barre de sa vie N°4−猫沢エミライブ&トーク@TRAUMARIS
2011年4月16 日(土)
身の丈に合った、東日本大震災の義援金も募ります!



千層蜂蜜petit.jpg


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大震災4日目の3月14日から、混乱の中、関東での輪番停電が始まった。


街のコンビニ、スーパーは相変わらず生活の基本物資が品薄もしくは欠品で、気持ちよいほどすかすかの棚も見慣れ始めた。東京の夜は、暗くなった。電車は間引き運転により、ダイヤの乱れが当たり前となり、電気を始めとして何もかもが節約モードに切り替わった。と、ここまで書いて、こりゃまるで常時のパリではないかとふと思う。

花の都パリ、というまことしやかな代名詞を背負ったあの街は、皆が思うほどいわゆる`都会´ではない。大手のスーパーでも、トイレットペーパーがなぜかのきなみ欠品の日もよくあるし、電気も水も日ごろから節約するのが当たり前。ネオンなんかパリ市と郊外を隔てる環状道路あたりでしか見られないし、メトロは意味もなく遅れたりする。東京がパリに近くなった。私には、そうゆう感慨しかない。パニックになって買い占めをしたりする必要も、暗い東京を憂いだり、また逆に「妙に落ち着く」などと言って心動かしたりもしない。いつも何かが少し足りない生活を、楽しむ術はもう持っている。だから、地震の前後、という風に無理に時間を区切ってメランコリックになるのはやめたのだ。

福島の実家の母と、地震後初めて電話が通じたのは5日目・3月15日だった。彼女はいつものように飄々として明るかった。お風呂にずっと入れないことで、父がいらいらのピークに達している、という話を面白おかしくしてくれた。辛い時、その辛さをどれだけ素早く自分から引きはがして、人事みたいな笑い話にできるか。そのスピードで、人の強さはある程度はかることができると信じている。私も母も。


同じ日の朝、Oが台湾へ旅立った。地震から逃げたわけでもなんでもない。地震前からフィックスしていた、ただの出張である。「非国民!」と冗談めかして笑って見送る。それから6日後の夜、Oがたくさんの、本当にたくさんのお土産を抱えて台湾から帰って来た。お土産は、私の大好きなパイナップルケーキをはじめとする、台湾が世界に誇るべき繊細な味の焼き菓子他、非常食のグラノーラバー、マスク100枚、お酒、お茶etc。あまりの量に「どうしたの、これ?」と尋ねると「全部、台湾の友達が用意してくれたんだ。」そう。

私はOと違って、今までに台湾へは1度しか言った事がない。台北の原付バイクの多さや空気の悪さや、屋台で食べた不衛生なものに当たって七転八倒したことなど、正直あまりいい思い出がなかった。けれど、彼らの人情の深さは日本人のそれをもしのぐ、ということだけはしっかりと印象に残っていた。そして、地震発生からこれを書いている3月28日現在の間にも、台湾からの義援金は約60億円というものすごい額となった。想像してみて欲しい。日本の総人口の5分の1にも満たない国が、初任給は3分の1程度の国が、60億円のもの義援金を日本のために集めてくれたのだ。

冷戦下の1971年、国連で中華人民共和国が、いわゆる`中国´の代表権を取得してからは、台湾と日本は国交を断絶した。つまり表立ったところで、日本は中国を選んだのだ。毎日、どこそこの国がいくらいくらの義援金を日本へ…とたくさんの報道がされている。けれど、台湾の美談はほとんど報道されない。Oに抱えきれないほどのお菓子や、非常食のグラノーラバーをくれたのは、利害関係のある仕事仲間ではない。彼がよく行く、味がいいと評判の餃子屋のおかみさんである。人として、自分のことのように心底心配して、これだけのものをくれたのである。政治的な歴史を背景にした国交断絶、そして中国への気遣い、へつらいなどいとも簡単に越える、人間としてもっとも強く暖かい思いやりが、そこには存在する。そして、今こうしている間にも、台湾からの義援金はさらに増え続けていることだろう。

おかみさんがくれた、大好きな台湾菓子`千層蜂蜜´を切り分けて、一口一口噛み締めながら味わう。バウムクーヘンのようなこのお菓子は、他のどの焼き菓子とも違う、形容しがたい口溶けをする。あたりの柔らかな、卵の気泡がひとつぶずつ均等にはじけてゆくような。ぎらぎらと甘く重い中華菓子と比べ、台湾のお菓子は、それはそれは繊細で甘さもかなり控えめだ。そのまま、人柄が味になったような台湾のお菓子を食べながら、「ありがとう。」という人としての感謝の涙が、ぱたぱたとこぼれた。


●小樂天餃子館
台北市忠孝東路五段151號
11 :00~21 :30
第一&第三日曜日 定休


Photo1. 千層蜂蜜。台湾のお菓子は、日本では認知度が低いけれど
    その繊細なおいしさは、もっと注目されるべきもの。

   2.小樂天餃子館のマダム一家。ぎゅっと握られたご夫婦の
     手からも、心温まるものを感じる。





posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月14日

日本が揺れた日〜東日本大地震 四日目

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震災から週末明けの月曜日。

予定通り、朝から打ち合わせに出ようとするも都内の電車はかなりの麻痺状態。TVやインターネットで情報を集めてみると、都心部の電車は本数が少ないものの、かなりがんばって動いている様子。いつもよりもかなり早めに、うちの最寄り駅、半蔵門線・水天宮駅へ到着。ちなみに、東京以外の地域にお住まいの方のためにわかりやすく説明すると、ここは東京の心臓部、皇居近くの大手町まで駅ふたつという位置。駅のすぐ横には、成田空港・羽田空港まで直通で行けるT-Cat という高速バス乗り場がある。

電光掲示板他、ホワイトボードに軒並み不通路線情報が表示され、一抹の不安を覚えて先方に連絡。ひっきりなしにやってくる余震と、今日から始まる輪番停電のことも考慮して、打ち合わせは延期となった。心情としては「動かねば!(被災地のために具体的に今なにもすることができないのならば)せめて働かねば!」という気持ちではある。体も家も無事に助かったのだから、少しでも働いて経済を回さねば、本当にこの国は終わってしまう。それは、地震前の個人レベルの「あー、貧乏。」というものを軽々と越える、遥かに大きな危機感だ。

この時間帯は、いつもならばサラリーマンやOLさんの通勤時間の終盤なのだけど、今日はたくさんの人たちが、足早に丸の内のビジネス街へ向っている印象を受けた。OLさんのファッションに目が行く。ほとんどの人がスニーカーやもしくはかかとの低いフラットシューズを吐いている。地震発生日の11日金曜日、都内の交通網が麻痺して、何時間も歩いて自力で家にたどり着いた人たちが大勢いた。友達は、夕方の6時に都心を出発して、あくる日の深夜1時に家についたという。

ところで、パリでもストライキで何週間も交通機関が麻痺することがよくあるのだけど、パリ市内の場合は、そもそも街自体がとても小さく、東西南北8kmしかないので(山の手線の内側にすっぽり収まってしまう大きさ)はじからはじまで歩くことも可能かもしれない。それに比べ、東京は巨大な都会。歩いて家に帰った人たちはさぞ大変だったろうと思う。ましてや、ヒールのある靴で出勤したOLさんなんて!パリみたいにヴェリブ(市内の至る所にある、誰でも使える公共の自転車ステーション)があったら、ずいぶんと助かっていただろうなと思う。これを機に、日本でもヴェリブのシステムを導入してはどうか?と思う。常々「無人島で使えないものは、所詮便利なものではないのだ。」と思っていたのだけど、今回はそれが実証されてしまった感あり。電気やガソリンなど、エネルギーが必要となるものは、それが一番必要な緊急時、無用の長物となってしまう。最後に信じられるのは、人力、これのみ。そうゆう意味では、ローラーブレードやスケートボードなんかもお遊びじゃなくて、真剣によいのでは?と思う。ちなみに、パリ市民はローラーブレードが上手な人多し。純粋にスポーツや娯楽という面でも人気だけど、ストのとき、これほどコンパクトで役に立つものはないからね。ただし、上手でないと危険だけど(笑)。

今日は快晴の青空。それなのに街の色はどこか陰惨に見える。心がひしゃげているからそう見える、というのは否めないのだけど、それよりも、遊びや華が街の人たちから消えてしまって、緊急態勢下の鬼気迫る`実用性´が全面に押し出されているからなのだろう。

打ち合わせが飛んだので、そのまま店の物資確認などをしてみる。もうすぐトイレットペーパーがなくなる我が家。偶然、地震の前日にOが「あと2個しかないからそろそろ買っとくか。」と言っていた言葉を思い出す。しかし、ない。駅前のマツキヨにも、もう少し離れた薬局にも、ない。昨日、人形町を散策した夕方時にも、すでになかった。そして、自転車のハンドル両脇に5個入りティッシュを散々ぶら下げたマダムたちも。それを見かけたときは「出たー、買い占めマダム。」としか思っていなかったのだけど、被災地でもない東京のこうした人たちがヒステリックに反応して、物資が極端に買いづらくなっている報道を見たとき「しまったー…一言物申しておくべきだった。」と後悔した。もしも、言ったなら「あんた誰よ!何様よ!」と、一悶着になるであろうが、そんなことはどうでもいい。今は、被災地に物資が届かなくなる事態を、個人レベルで少しでも食い止めることが必要。TVの前で泣いているだけなんて、もうこりごりだ。

どこへ行っても必需品がないので、諦めて家に戻り、仕事。ボンズールの編集部とも連絡を取って、今後メディアとしてどう対応してゆくか、次の号が無事に印刷所にまわり、配送されるのかなどを急ぎ確認指示。今週予定されている、他の打ち合わせ日の確認やら、各所への連絡などで一日がばたばたと過ぎる。気力、体力ともかなり疲弊。倒れ込むように入床。


Photo1. 半蔵門線・水天宮駅 9:00すぎ。
    ニュースでは、中央線が改札まで3kmの長蛇の列
    とコールしていたが、ビジネス街に近い都心部は
    逆にガラ空きとか。

   2.コンビニは、この有様。こんな風景、見たことない。





posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ ☁| 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする