2011年03月13日

日本が揺れた日〜東日本大地震 三日目

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ゆうべ、朝方に寝付いて5時間ほど眠ることができた。ひっきりなしに続く余震で地震酔いがひどい。少しでも下を向くと、ぐるんと目眩がして倒れそうになる。人間の体はよくも悪くも慣れが速いのだなあと思う。揺れる、ということが日常化すると、それを覚えてしまって体勢を作ってしまうのだなあ。

ところで、昨日は本当ならば、渋谷リエゾンでのライブ当日だった。地震発生日の夜には、事態が深刻なのを感じて、取りやめにすることを各所に連絡した。とても残念だったけれど、この判断は正しかったと思う。しかしこの先、どう状況が展開するのかまだまだ不透明だけれども、音楽は絶対に必要になってくるだろう。それも生のものが。私にも、みんなにも。


やっと眠れたことで、気力が少し戻り、キッチンの片付けをどしどしやる。落下したデロンギのオーブンは、プラスチック製の足台が割れてしまった。全体的に歪んでガラスのドアも閉めづらくなってしまったけれど、電源を入れてみたら無事だったので、中の配線は生きているみたい。さすが、シンプルな作りのものは強い。めちゃくちゃなリビングも一気に片付けたかったけれど、棚に積んで、また大きな揺れがきて落下すると危ないので、しばらく物を床に低く積んでおくことにした。ばたばた片付けていたら、マンション内にコールが響いてガスが復旧したとのこと。やった!お風呂に入れる。その前にお湯を湧かして熱いお茶を淹れてふうふう呑んだ。

キッチンが復旧して、なんとなく家にほのかな落ち着きが生まれた夕方、渋谷方面にある事務所の様子を見に行くというOに付き合って、駅まで出てみることにした。出かける気分じゃぜんぜんなかったのだけど、TVを見て、刻々となだれこんでくる情報に押しつぶされそうだったので、出てみることにした。街は節電モード一色で暗かったが、そもそも今までの東京の夜は、不自然なほど明るすぎたのだ。ソフィア・コッポラの`ロスト・イン・トランスレーション´がフランスで公開されたとき、仏人の友達に散々質問攻めにあったのを思い出す。「ねえ!映画に出てくる東京の夜の街は、映画のためのセットなのよね?あんなにたくさんネオンがついて一晩中明るいなんて、そんなのあり得ないわよね?!」…今思えば、あってはいけなかったのかもしれない。その、夢のような世界を作り出すために、故郷・福島にはいつの間にか原発が作られ、危険にさらされるようになったのだから。

日曜日なのに、ドコモショップが開いていた。そういえば、バッテリーが古くなって持たなくなっていたなと思い、緊急時のことも考えて、バッテリー交換に立ち寄った。ついでに、料金プランの確認をしてみたら、なんと私の携帯は、パケ放題に入っていないことが判明し、通信料があほみたいに請求されていたので、慌ててパケ放題に入った。あ、危なかった…街へ出てみてほんと、よかった。

Oと別れて、駅前の本屋さんへ。`きょうの猫村さん´5巻が出ていたので、今一番必要な書だわ!と即買い。それと、小川洋子さんの`人質の朗読会´を買い求める。本がたまらなく読みたかった。しかも、ただれた心はデリケートに、読める本と読めない本を選別してしまう時期だった。だから、なんでもいいというわけにはいかない。小川さんの本は、切ない設定の物語だったけれど、今まさに読むべきもの、という気がした。現状からかけ離れた馬鹿明るいものは、とても読む気にはなれない。これは、哀しみの中で、そっとうずくまるようなほの暗さに心惹かれたのだ。

駅前のマツキヨ、もっと離れた薬局を覗くもトイレットペーパー、ティッシュペーパーなし。

夜、実家に電話を書け続けてくれた友達が、実家と繫がって家族の無事を確認とのメール。よかった…!「お母さん、なんかすごいハイテンションだった!」あはは…あの人らしいや。殺しても死なない一家だとは思っていたけれど、今回ばかりは心底心配した。夜半に、母と地震後初めて携帯メールで直接やり取りできた。断水して、お寺の井戸水を汲んでしのいでいるとか。被災しているのに、こちらの心配ばかりしている母に感涙。

少し気をとりなおして、真夜中、仕事。しかし疲れてくると、目眩がひどくて吐きそうになる。パリのMac-graffitiメンバーからも、安否確認のスカイプやメールが来るも、長い時間、キーボードを打つことができない。まるで車の中で携帯メールしているみたいだ。Merci c’est gentil. mais je peux plus continuer...

夜中3時近くになってベッドに入る。今夜は猫村さんを読んで、すこし糸がほぐれるはず。



Photo1. 看板などの消灯はもう、すでに始まっている。
    暗くてわかりづらいですが、こちら、駅前のマツキヨです。

   2.胸がすくほど、紙類がのきなみありません。
     この地区一帯の人たちは皆、花粉症&下痢なのだろうか。。。











posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ ☁| 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

日本が揺れた日〜東日本大地震 二日目

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ベッドでちゃんと横になったのは、結局今朝の明け方だった。ゆうべから続く余震も不安で、リビングのTVは音量もそのままにつけっぱなしにして寝た。緊急地震警報もすぐにわかるし、いざというときに目が覚めて逃げやすくなると思ったからだ。

めちゃくちゃになった室内とはいえ、ベッドの周辺くらいは人間が暮らしている風にしないと、なんだかとてもやっていられない気分だったので、夜中にはあらかた片付けを済ませたものの、奉っていた神棚から落下した神様の食べ物(米、塩、お神酒)がぐちゃぐちゃにベッドの上へと降り注いだらしい。掛け布団をはがすと、冗談みたいにばらばらと米が散乱した。神様、この米はやはり不味かったですか?昨年夏の猛暑で熱害に遭った不良米。でも、お神酒は獺祭で最高だったんだけどなあ…とぼんやり思う。

目が覚めると、もうすでにOは起きていて、ゆうべは明らかでなかった被災地の信じられない光景に釘付けになっていた。福島・白河市でも生き埋めが10人以上も出たとアナウンサーが声高にしゃべっている。家の電話は未だ不通。携帯電話も同じく。この状況下では、母にメールをしても読めたものではないだろう。電気が通っているとはとても思えない。それよりなにより、無事なのかそうでないのかすら、まだ、わからないのだから。

キッチンのガスのスイッチパネルを押してみる。しばらくついているのだけど、すぐに点滅してしまい、不通であることを知らせる。ゆうべ、Oの帰宅後、ガスの復旧を何度も試みたもののだめだった。マンションのエレベーターは止まっていて、1Fに常駐している管理人さんや警備の人に尋ねに行く気力も失せた。23階降りて、また23階上がる力が残っていなかった。まあ、風呂なんかしばらく入らなくても死ぬわけじゃなしと、水を入れたマグカップを電子レンジでチンして、顔を洗うだけのお湯を作り、洗面器に熱々のお湯を入れて、水で割ってちょうどよくした。しばらくお化粧するのもやめた方がいいかなあ。万一のことがまた起きて、いきなり避難所生活なんてことになったら、メイク落としは贅沢品の中の贅沢品になってしまうだろう。

「ゆうべのバルチック・カレーの残り、食うよ。」とO。食欲なんてなかったが、私もつられて半分食べる。携帯電話は、白河はおろか都内の相手でもかからない。PCのある仕事部屋と、ひどい有様のリビングを無駄にうろうろするばかりで、なにひとつはかどらない。けれど唯一、スカイプで繫がっている友達とは、いつもどおり日本海外問わず、連絡がすいすいできたものだから、固定電話が生きているという友達とスカイプでやりとりして、実家に電話をかけてみてくれるよう頼んだ。


日本中が混乱しきっていた。昨日の朝は、普段と変わりなく朝ごはんを食べて仕事に出かけて、面倒な人間関係や将来についての悩み事や、夜に会う友達との会食を楽しみにしたり、出かけに見かけた星占いに一喜一憂したりしていたのに、たった一瞬の出来事が、そんなものを遠い過去にしてしまっていた。地震大国に住んでいるのだから、あらかじめ、どこかで覚悟はしていたものの、まさかここまで大きな計り知れない衝撃がやってくるなどど、誰が想像しただろう。

家に居てTVをつけても、整理されていない情報が押し寄せるばかりなので、ひとまず街へ出てみようということになった。幸いなことに電気は通っていたからエレベーターも動いていた。管理人さんのいる1Fのロビーで、マンション全体の不具合などを確かめた。(やはりガスは止まっている様子。電話に関しては、うちだけの問題なのか、地域なのか、それともこの建物の問題なのかまだ確かめられなかった。)近所のコンビニへ行くと、地震前よりも格段に物は減っているものの、まだ切羽詰まった状況ではないように思えた。そもそも、普段から極力物を買わない節約生活が当たり前だったので、物不足の焦りはおそらく感じないだろう。コンビニのはす向かいに鶏屋さんがあって、その軒先で縁日みたいに焼き鳥の屋台が出ていた。地震だからしているのではなくて、数日前からこの鶏屋さんでは焼き鳥を始めていたのだった。ひとつ、地震前から変わらず続く時間を見つけて、ほっとした。焼き鳥を一本買って食べながら歩いた。食べている間だけ、地震前の日常を体で思い出すことができた。フランスの友達から携帯に電話がかかってきて、その声はとても緊迫していた。わかる範囲での状況と無事を伝えたけれども、なんとも言えない曖昧な空気で自分の言葉がうわすべりしているのを感じる。

橋を渡り、緊張の頂点で公共放送を聞いた浜町公園を抜け、いきつけの八百屋とその周辺を見てまわった。安くて有名な八百屋の野菜たちは、すでに値を上げはじめている。そして、街の方々に警視庁と書かれた黄色いテープがはられて、崩れはしないまでも、このあたりの古いビルには傷跡がたくさん残っていた。それから人形町に入って、普段通りの散策コースを練り歩いてみると、今半を始め、地元に根付いた食べ物屋さんが変わらず元気に営業していたりして、ふっと明るい気持ちにさせてくれた。逆に大手の大規模チェーン店は軒並み閉店。フットワークの軽い個人店の力が生きるときだな…。

今半の総菜店ですきやきコロッケを食べて「なんで、下町の一軒家っていうのは、家の前にむちゃくちゃ植木鉢を置きたがるんだろうねえ。」などと話していると、地震前も、その瞬間も、そして今このときも、すべてが不確かな幻のような気がしてくるのだった。普段は気づく必要もないほどつまらない幸せな日常も、体の奥で存在の危機が叫ばれる緊急時も、生きているということ自体が壮大な幻なのだ…そんなことを思いながら暮れかかる街を、地震酔いのふわふわした足取りで歩いてゆく。

持ち帰りだけの、このあたりでは有名なおでんやさんで、老女将が忙しく立ち働いていた。こんぶやシュウマイ巻きなどを1本の串に刺してもらい、食べながら歩く。こんなときに営業するほうも、食べあるく者も不謹慎なのだろうか?そんなことはあるまい。働く方は、こうしている間にもひっきりなしに起こる余震のリスクと背中合わせで、火を扱い、街の人たちへおいしいものを提供している。食べ歩く方も、栄養と心の滋養をもらって、長く長く続くであろうこれからの戦いに備えるのだから。

夜、美しい気仙沼の街が業火に包まれる恐ろしい映像の前に、ひりひりとした涙がとめどなく溢れる。友達、白河の実家に何度もコンタクトを試みるも、だめとの連絡。明日もかけ続けてみるよ、とのこと。ありがたくて、今度は温かな涙が溢れる。



Photo1. 鶏屋さんの焼き鳥屋台にて。

   2.明治座の横にある、明治観音堂の灯籠も、倒れるなどの被害あり。

   3.非日常時、日常をがっちりと繋ぎとめようとする人々に感謝。
     おでんやさんの優しい灯火と女将さん。








posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ ☔| 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月11日

日本が揺れた日〜東日本大地震・発生日


今、報道各所を始め、ツイッターやあらゆる掲示板が、本当に`未曾有´という言葉は、この惨状を表すものだと言わざるを得ない日本の大惨事について、必死に情報を送り続けている。そんな中、一個人の私ごときがブログで何かを綴るのは、無意味で不謹慎と思う方もいるやもしれない。それでも、私は書こうと思う。むろん、震源地に近い東北地方現地での被災ではないので、それを克明に綴ることなどできるはずもないが、公表によると震度5という日本の中核・東京での体験と情報を。海外に暮らす多くの日本人の方々も含め、遠方だからこそ、心配が募る方々に少しでも何かを伝えられたらと、おこがましくも思う気持ちをできれば許して頂きたい。美しい土地に住んで命を育んできた数多くの魂への深い哀悼と、そして今もなお、この未曾有の運命と戦う被災地の方々への心からのエールとして。



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14:00−ひとつ仕事を終えた帰り道、私は自転車に乗って東京都・中央区の人形町を夕飯の買い出しのため、巡っていた。我が家の御用達精肉店・日山にて、この日のお買い得品、豚ロースを2枚買い求めた。店頭にはいつも快活な販売員のマダムたちが笑顔で応対していて「あらっ、あなたのお帽子とても素敵ね!よく似合う。」と、Johnbulleのハットを褒めてくれたのだ。本当に良いものは、世代もジャンルも越えて人にわかるものだなあ。それがほんとのお洒落というものだな…そんなことを考えながら街を巡った。いつもとかわらぬ活気、晴れた空、平凡で幸せな空気が小さな街に満ちていた。



14:46−自転車が裏路地の遊歩道にさしかかったとき、突然ビルの中からたくさんの人たちが駆け出して、空をあおぎ始めた。最初は、このあたりをよく通過する広告飛行船でも眺めているのかしら?と、のんきなことを思っていた。それほど地震が起きた瞬間、自転車に乗っていた私には揺れがわからなかったのだ。しかし人々の顔つきがいつもと違う。悲鳴を上げたひとりのマダムに驚き、自転車をとめた次の瞬間、ものすごい揺れに襲われ、立っているのがやっとであった。古い小さなビルを含め、50階建てのマンションやオフィスビルが立ち並ぶ、商業地区のこのあたりの建物という建物が、はっきりと目に見える形でがたがたと揺れ、鍵をかけていなかった窓という窓がスライドして開き、そこから植木鉢やあらゆるものが落下してきた。

「ついに東京にも来たな。」

遊歩道に避難してきたサラリーマンのムッシュがつぶやいた。それが、この未曾有の大惨事の、東京での幕開けだった。しばらくして揺れはいったん収まったものの、ただの地震ではない、何かとんでもないことが起きている、という空気は色濃く漂い続けた。それでも、まだそのときは、事の重大さを正しく誰もが理解していなかった。むろん、私も同じだった。

そのまま家に戻ろうかとも一瞬考えたが、なんとなく行きつけの八百屋に立ち寄った。おそらく、動物的なカンどころではすでに非常事態を感じていたものだから、逆になるべく普段と同じことをしよう、しようと動いたのではないかと思う。八百屋のはす向かいのビルの外壁が無惨に崩落している。外壁がはがれ落ち、中の鉄骨がむき出しになっていた。店に入ると、呆然としたままのご近所のマダムが、ふらふらと野菜を選んでいて「あらやだ。うろたえて同じ品物2つも買っちゃった。」と、ひきつった笑顔を見せていた。八百屋での買い物を終えた私は、再びそのまま家に帰ろうかとも思ったけれど、もう一度あの遊歩道に戻って、その前にある和菓子屋さんで今年初めての桜餅を買おうと、思いついた。先刻の地震でビルを飛び出してきたたくさんの人たちが、まだそのまま遊歩道で待機していた。和菓子屋さんの店員さんは、ひきつった顔のまま「すごかったですねえ…。どうぞお気をつけて。」と桜餅の小箱を渡してくれた。その店から、このあたり一帯の避難場所となっている浜町公園までは、歩いても5分もかからないところにあった。先の地震を、それほど深刻には考えていなかったし(意識層では)浜町公園を通って家に帰るのは日常のルートだったので、そのまま公園へと向った。公演が終了したばかりで、お客さんが駅へと列をなしてむかう明治座の横をすり抜けて、浜町公園の入り口にさしかかったとき、さっきよりもさらに強い二度目の揺れに襲われた。わああああ!という叫び声と共に、近くのオフィスビルからたくさんの人たちがなだれ込み、公園はあっという間に人で埋め尽くされた。がたがたと激しく揺れる明治座のビルを皆が恐ろしい思いで眺めていた。そこで、初めて事の重大さに気がついたのだ。

恐怖にかられて、私はずっと「やばい、やばい、やばい…」と小さな声でつぶやき続けていた。すると、公園内にある中央区スポーツセンターの屋上から公共放送の「只今の地震は震度5弱…」というアナウンスが流れた。避難していた人たちから「えー?!そんなもんじゃなかっただろう。」という声が一斉に上がる。たしかに、そんな程度の揺れとはとても思えなかったのだ。怒号渦巻く中、後ろを振り返ると、隅田川の向こう岸に建つ、我が家のマンションが見えた。普段から、遠方での地震の長周波を丁寧に拾ってしまう、耐震高層マンション。最上階からひとつ下の23階にあるものだから、なおさら揺れは増幅する。もしかしたら、今家に帰るのは危険かもしれない…と思うも、携帯電話の回線はパンク状態で、誰にも連絡がつかない。家に帰らねば、今何が起きているのかを把握することもできない。余震が続く中、未だ公園内で待機し続ける人々の合間をぬって川沿いの遊歩道に出て、橋を渡り、家に戻ることに決めた。橋の上で再び先ほどのような揺れがきたら、この橋は持つのだろうか…と思いながら。


案の定、橋の上で、かなりの余震に襲われ、ぐわぐわと歪む橋の欄干を横目に見ながら、勢いよく自転車をひっぱり走って一気に向こう岸に渡った。そこから左へ折れて、小さな坂を下れば、公園から眺めていた我が家はすぐだった。マンションの外には住人が不安な面持ちで、連絡のつかない家族の帰りを待ったり、携帯電話を何度もかけ直そうとしていた。高層マンションは上の階に行くほど電波が弱くなるから、私の日常でも1階に降りて、電話をかけることがよくあった。

ロビーに待機していた管理人さんに状況を尋ねようとしていたら、やはりここの住人で初老のマダムとその息子さんが駆け込んできて「みなさん!津波がくるかもしれないの。地下駐車場にこのマンションの電気系統が結集しています。そこがやられたら、ここは機能しなくなる。今から手分けして、防御壁を作りましょう!」と促した。先ほどまでいた浜町公園に、こちらのマダムと息子さんも避難していて、私が去った後も残っていたらしいのだが、公共放送で、津波警報と高台に上がる指示が出たのだという。それを聞いて、急いでここへ戻って来たのだそうだ。しかもこのマダム、マンションが出来た当初からここに住んでいる住人さえも知らない、地下駐車場脇にある防御壁のありかもちゃんと知っていて、てきぱきと防御壁の設置を指示していて、すこぶるかっこいい。しかし、本当に隅田川の防波堤を越えて津波が押し寄せてきたら、こんな程度の防御壁が役にたつのだろうかと不安ではある。あるけれども、今はできることをやるしかないのだ。

防御壁の設置が終わり、すぐさま、川沿いに避難してる人たちに高台へ避難するように!と走り回って伝達した。けれど、中にはあからさまに「なにを大げさな。」という表情を浮かべる人もいる。いいのだ。嘘つき羊飼いになっても。後で「やっぱり大げさだった。」と思えるなら、こんなに幸せなことはない。オオカミが来るよ、津波が来るよ…とにかく駆け回って叫び、目に見える川沿いから人が消えた頃、急いで買い物を袋をかつぎ、エレベーターの停止したマンションの非常階段を一気に23階まで駆け上がった。

息を切らして、たどり着いた家のドアを空けて呆然とした。なんだこれは。棚も段ボールもとにかく積んであったもの、高さのあるものは倒れ、リビングに進むこともままならない。仕事部屋にいたっては、楽器や機材を収納している重い鉄の収納棚が前に50pもスライドし、傾いていた。本棚はあっけなく倒れ、ファイルやその他様々な書類が散乱して、デスク前にたどり着くことも難しい。傾いた棚の隙間から机の上に置いてあったPCが見えて、それが無傷だったことに少し救われた。ざっざっと、よけられる足元の書類を蹴散らして、ファイルを踏んづけたまま、片足立ちでPCに電源を入れた。それで、やっとツイッター、あらゆるサイトから、東北地方を震源とした巨大な地震が起きたことを知るに至った。

固定電話はルーターが物の下敷きとなって壊れてしまったのか、まったく使えない。携帯はもちろんのこと、リビングもひどい有様で、TVのスイッチまでたどり着くことができない。キッチンも悲惨だった。冷蔵庫のドアが全開して、中のものがことごとく床に飛び出し、ガラスの破片がちらばっていた。仕事部屋でも同じ現象が起きていたが、恐ろしく重い食器収納引き出しも前に50pもスライドしていて、どうゆう揺れ方をすれば、こんなことになるのだろうと首をかしげるばかり。そして何より、地震発生時、外の、しかも遊歩道や公園に偶然ながら居れたことがラッキーだったのだ。どこから手をつけていいものかまるでわからず、無駄に右往左往している間にも、かなり大きな余震が家を揺らし、気が気ではないので、ドアを常に開けたまま、頭に被れるものを…と探したら、昔撮影で使ったお洒落な乗馬帽が偶然足下に転がっていて、すぐさま被った。

ドッキリ大作戦のノロさんが被っているような工事現場の黄色い頑丈なやつがいいのに、何をこの非常事態にお洒落乗馬帽なんか…とも思うが、ヘルメット風なものがあっただけでも、十分ラッキーと言わざるを得ない。PC前の散乱物をとにかく片付けて、なんとか椅子に座ってキーが打てるようにした。

ツイッター、始めておいて本当によかった。これが第一の感想だった。私は基本的に通信過多というのには賛成できない部分があったのだけど、ツイッターのお陰で刻々とリアルタイムの情報が得られたし(混乱の最中だったのでガセも多かったが)何より、電話が不通の状況下で、友達の安否が確認できた上、コンタクトもできてずいぶんと支えられた。テクノロジーも情報も、使う人の心持ちと状況で価値がずいぶんと変わるものなのだとしみじみ思った。

現時点でわかる地震の状況を10分程度でつかんで、すぐさまバルコニーの外に広がる隅田川を見やった。水位がぐんと下がっていて、洒落にならない寒気を感じた。先ほど避難していた浜町公園からは、人が大挙して逃げてゆく様が見えた。東京タワーは、まだそこにきちんと立っていたが、これが現実なのかどうか、ひとつも確かな実感などないのだった。

ツイッターで川沿いに居る人の避難を呼びかけてから、スニーカーを履いたまま、リビングに踏み込んでなんとかTVのある場所までいって、最低限の物をどけ、スイッチを入れた。そこから先は、錯綜しながらもみなさんもご覧になったであろう、数々の恐ろしい情報がものすごい早さで流れ続けていた。まるで津波のように。

かなり大きな余震と小さなものを合わせると、揺れていない時間の方が少ないのではないか?と思うほど揺れ続ける家の中で、ときどき廊下に飛び出しながら、夜まで情報収集を続けた。実家のある福島県・白河市とは、むろんひとつも連絡がつかなかった。


夜中になって、Oが無事帰って来た。Oは仕事の出先ビルのエレベーター内で地震に遭ったのだという。箱が左右に無茶苦茶に揺れて、こりゃあケーブルが切れて落下死だな…と覚悟したが、なんとか1Fまで降りられたのだとか。本当に…!生きててよかったよ。すぐに食べられるものをと、都内を自転車で駆け回って、バルチック・カレー2人前と、フレッシュネスバーガーのクラシックを2個買って来てくれた。

「もう、どこにいっても何にもなくって。コンビニなんか、水もパンもおにぎりも全滅だ。」

交通機関が完全に麻痺した東京には、金曜日の帰宅難民が溢れ、家のバルコニーからも、都心部から千葉方面へ向う人の列が長く長く続いてた。男手が戻ってきたので、リビングのオーディオ棚を元に戻そうかと思ったが、余震があまりにも続くので、また倒れては危険とそのまま今夜は放置することにした。「ご飯食べないの?」とO。せっかく駆けずり回って買って来てくれたのだし、こんなときこそ食べねばならぬのだけど、食欲なんかどこかにいってしまい、カレーを半分だけ食べたのは夜半すぎだった。帰宅後、最初にスカイプで連絡を取った友達に「バスタブに水を貯めておいた方がいい。」と言われ、満タンまで備蓄した水が、ときおり、ばっしゃんぱっしゃん余震で揺れこぼれる音がする。

ところで、東京の津波は結局、私が嘘つき羊飼いとなって無事に済んだ。しかし、故郷福島をはじめ、親戚筋のいる宮城、岩手などの沿岸部では、信じれない大津波が押し寄せたという。バスタブから溢れる不気味な水音を聴きながら、水とはいったいなんなのだろうと考える。陸に住む生き物は、水によって生かされ、水によって死に至らしめられる。津波他、被害詳細の全貌は、まだ明らかではなないが、続々とこの世のものとは思えない映像が流れ込んでくる。


依然、白河の実家と不通。ゆうべもほとんど寝てないが、極度の緊張状態で寝付けず。服を着て、TVのニュースを流したまま、ソファで数時間うとうとする。


Photo1. 二度目の大きな地震発生直後の浜町公園の様子。皆、一様に不安な面持ち。

   2.一度目の地震で壁が崩落した浜町の古いビル。

   3.帰宅直後の我が家ーリビング。

   4.帰宅直後の我が家ーキッチン。






posted by 猫沢エミ at 00:00| パリ | 東日本大地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする